スクイーズ篇

□柑橘類の香水
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001.5

「ちゃんと着替えも持ってきてくれて助かるわ」
 本来、ちよが泊まる予定の場所はホテルだったので、着替えやアニメティ等の用意は当たり前といえば当たり前なのだ。
「事前に泊まることが分かれば私だって準備するって」
 ちよはバックを漁りながら、着替えを取り出す。
 以前着替えを借りたときがあったが、酷いとはまた少し意味が違うが思い出すのが恥ずかしい目に遭ったことがある。
 脱衣場に行くと、その後を蟬ヶ沢もついてきた。
「…………あのさ……、まさかだけど、一緒に入るなんて言わないよね?や、やだよ?シャワーくらいは一人にして欲しいんですけど………」
「近くにいるだけよ。ただ、何かあったら直ぐに行けるようにしたいだけ」
 心外だと言わんばかりに、ため息を付く。ちよが脱衣場に入っても彼は入り込まず、外側の入り口で座り込み、バインダーに書き込む。そこで待つつもりらしい。
 普通の人間でも聞こえる位置に座られては、一体どこまで聞こえるのやら。
「脱ぐなら扉は閉めなさいよ。誤解されるわ」
「落ち着けない……」
「何かあってもほっとくわよ」
全くこちらを見ないで作業をしているが、少しでも音を立てただけでも来そうだ。
「むしろほっといて、何か物音立てただけで来そうで怖い」
「そのくらいじゃ来ないから安心して」
そう言った彼は全く振り返らずに扉を閉めた。
 閉まった扉をじっと見るが、来る様子はない。
 覗く趣味はないだろうから
 レバーを上げてシャワーからお湯を出す。握力も利き手はある程度は戻っているので、握力があまり必要とされないレバーで助かる。
 タオルを巻いて、脱衣場の扉を開ける。蟬ヶ沢がいる。
「…………。どうしたの?」
 視界の端にタオルと素肌が見えたのか、僅かに見えた顔は驚いていたように見えた。すぐに背けてしまった。完全に背を背けることで、ちよを視界に入れないようにしているらしい。
 ただ、聞いている体として、僅かに顔を向けている。
「いや、うん。いるなって」
「早く浴びて、風邪引く前に出なさい」
 風呂場に戻り、壁を叩く。硬い響きに反響音が入っている。
 ここで歌でも歌ったら確実に聞こえるだろう。防音をしようと思えば出来るが却って来てしまいそうだ。
 ボトルを一つ落としてみる。
 モザイクの扉は揺らぎ一つない。脱衣場の扉すら開けていないのが分かる。
 覗いてくれとは思わないが、からかい甲斐がなくてつまらない。本当に来られたらそれはそれで困るが。
 大人しくシャワーを浴びたものの、この音も聞こえているだろうなと思うとさっと終わらせたくなる。
 バスタオルを巻いて髪の毛を拭きながら、まさかまだこの扉の前にいるわけないよなと思いつつ、あの人なら本当にいそうだという考えの方が強い。
 突如扉が開いた。開けたのは当然蟬ヶ沢で、焦った顔だったが何も問題がないのが分かると気まずそうに顔を反らした。
「あー、ええと、ごめんなさい。無事だったのね。というか、終わっていたなら早く出なさいよ。風邪引くし…………………………困る」
いつぞやの雨宿りの件といい、過保護を越えて羞恥プレイをしている自覚がないのだろうか。
「着替えるからセミさんは出てよ」
蟬ヶ沢を脱衣場から押し出すと、くしゃみが出てしった。
「お湯は沸かしてあるから好きなの飲んでて」
 蟬ヶ沢はちよと入れ替わる前にポットを指す。押せばお湯が沸くタイプのものらしい。あらかじめ沸かしておいたからか、湯気がすでに見えている。
「覗かないでよ」
蟬ヶ沢はふざけてウィンクをする。
「覗かれたらきゃーって言ってね」
おばかと聞こえたが、何も聞かなかったことにした。
 十五分ほどで出てきた。
「早くない!?」
「早くしたもの」
男性の方が風呂の時間は短いと聞くが、早すぎではないだろうか。
「セミさん頭貸して。ドライヤーやるわ」
「な、ななんでよ!」
蟬ヶ沢の頭をドライヤーで乾かす。短い髪なので直ぐに乾く。
「セミさんなんか、いつもと匂いが違う」
「風呂上がりだからじゃない?」
「もうちょっと柑橘系の匂いがしてたと思ってたけど、シャンプーとかじゃなかったのね」
「……」
物凄く小さいため息がつかれた気がする。肩が落ちて、凹んでいる。本日二度目のテディベア状態である。胸ポケットから何かを取り出す。シュッとした音が聞こえた。
 ぺったりと右の掌をちよの首につける。
「これで同じ匂いね」
満足そうににっと笑い、ドライヤーをしまいに行ってしまった….。
 恐る恐る、ちよは自分の首に触れる。
 キスをされたわけでもない、ただ手を擦り付けられだけだ。ただ、手が触れた箇所がやたら熱く、擦り付けられた感触が延々と続いて、一生この感覚がここに残るのではないかと思ってしまうくらい生々しく感触が残っている。
「………へ、へんたい!!!」
「はいはい、へんたいよー」
「良くないわ!ばかー!」
 ちよは感触ばかりに気をとられて、首につけられた柑橘系の匂いには気づくことはなかった。
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