スクイーズ篇 二門

□我慢しろって言う方が難しい
1ページ/1ページ

 大きな熊がベッドを占領して眠り込んでいる。
 この熊さんは洒落たスーツを脱ぐことも忘れている。
 ちよは風呂上がりで彼を待つつもりでいた。
 風呂に入っている間に帰宅し、ベッドを占領している。大の字で寝転がり、熊の皮のカーペットと勘違いしたくなる。
「すーぐーるーさーん」
 ぺちぺちぺちと頬を叩いて起こすが覚醒のかの字もなく、すーすーと夢の世界にいる。
 ちよは小さくため息をつくと、蟬ヶ沢の裾をつかみ始めた。
 うつ伏せの姿勢でジャケットから脱がせる。重いと思いながらもなんとか脱がせることが出来た。
 次にスーツのパンツだ。
 大熊の体を仰向けに直し、ベルトを外す。
 大熊の体が、腰から下がふわりとやや上下に揺れながら浮かぶ。ちよの特殊能力の応用で、彼の肉体のみを浮かしている。長時間浮かせるのは危険なのですぐに終わらせる。
 スーツのパンツをずり下ろし、
「……………何、してんのかしら」
「……………」
赤面した大熊が足の間から覗かせていた。

 ちよは起きた大熊を気にせず、彼の体をおろした。
「スーツのままじゃ皺になるから脱がせてただけ」
「…………寝込みを襲った訳じゃないのね」
「なんで残念そうなの」
「ええ、ほら、ちよからってあんまりないじゃない」
「…………目の前の人が先に手を出しちゃうどすけべさんだし」
「風評被害よ」
「すけべでもなくてもいいからズボンを貸して。皺になっちゃうから」
 脱いだスーツのパンツを受け取り、寝巻きを渡す。パンツはハンガーに掛けて、消臭スプレーをかける。広げたパンツから鉄の臭いがした。
 ちらっと後ろを見るが、怪我をした様子はない。ほっとしつつも嬉しくも思えない複雑な感情を抱きつつ、パンツに付着した血痕を探し当てる。ちよの能力で血痕は分離され、パンツからは落ちて見えなくなった。
 後ろから腕を回される。
「風呂上がりのいい匂い」
「誘ってる?」
「誘われたい」
「………むっつりすけべ合成人間」
「すけべは貴女にしか向けてないわよ」
 ちよは赤くなる。ちよの能力はあるとあらゆる向きが視える。
 後ろにいる彼には触れなければ視ることは出来ない。
 今は少し違う。
 ベッドで待つ彼はわくわくしていると全身から放っていた。そう視えている。オレンジと朱色、濃い目の桃色とも薔薇色とも判別がつかない色味は全体的に暖色系の“意識の流れ”のもやが視える。
(期待と興奮と喜び……あとは下心)
 漫画的な表現であればこちらにハートがばしばし当たっているだろう。
 早くベッドに戻ってくれと頼むと彼はしぶしぶ布団に潜り込んだ。布団をかまくらのように被り、背を向けている。
 シルエットでも情けなく背を丸めた姿が分かり、くすりと笑う。
 部屋は暗くしているとはいえ、うっすらその姿は見える。ちよの視力でさえそこそこ見えるのなら、彼ならすればはっきりと見えている。
 最初は嘘をつかれていた。当時の部屋の暗さではお互い見えないと言われていた。あの暗さでも見えてはいたのだ。
 ハンガーに明日のネクタイを準備し振り替える。
「あー、そうね、すけべなのは認めるわ」
 ちよは腕を捕まれ、ベッドに引っ張られる。 恐らく向かい合っている。強化された視力ではちよの真っ赤になった顔も見えているのだろう。
 瞳は反射して時折きらりと光る。獣が狙うときはこんな目をしているのだろう。
「……我慢しろって言う方が難しいのよ」
 ぎゅうぎゅうときつくない程度に抱き締められ、一緒に横になる。
 安心感に満たされ眠気で意識が落ちていくのを感じた。
「せみさん」
 笑い声で返事をされる。
「すぐるさんのばか」
「いいわよ。ちよの好きな方で呼んで」
「……………」
「それじゃあ交互で」
「……………せみがさわすぐるさん」
「一気に他人行儀に聞こえたんだけど」
「他人だし」
 背中から手を入れてホックを擦る。
「他人ならこんなこともする?」
「こんなことが出来るのは目の前のおじさんくらいだよ」
「こんなことしたくなるのは目の前の貴女くらいよ」
 首に噛みついてきた。歯形が五分そこらで消えてなくなる程度の軽さで、痛みらしい痛さもない。
「………セミさんのすけべ」
 ゆっくりと押し倒される。反射で光る瞳を目印に両頬を包む。
「次に帰ってきたときに増えていたらびっくりするかもね」
「きっと苦笑いされるわよ」
「苦笑いする余裕があって欲しい。向こうの世界はどうなっているか……」
「大丈夫。ちよの能力も預けているんでしょう?」
 頷くが震えてしまう。
「あんまり不安なら忘れさせるわ」
「忘れるのは怖いから少しだけセミさんだけ視てたい」
「忘れた分を私で埋めればいいのよ」
「セミさんまみれでいや」
「まみれるだなんて、埋め尽くしたいくらいよ」
 口先が微かに触れられ、漏れた息が吹きかける。漏れ出た息ごと覆い被され、意識も息も埋め尽くされる。
 合成人間だからかそれほど想ってのことか、長いこと身も心も埋め尽くされ、ちよの意識は飛びかけていた。
 肺にはいる空気が涼しく感じたかと思ったら、彼は離れていた。
 睨まれても悪びれずに満足そうに笑みを浮かべる。
「このぐらい誰も入る隙間がないくらいに、ね」
「ちょっとは隙間を開けて」
「寂しいは少し吹き飛んだでしょ」
 強引とも言えるがまさに、曇った感情は少し吹き飛んだ。
 ちよは顔を押し付ける。
 彼には他人の不安も恐怖を見抜く能力はないが、ちよの心の機微には目ざとい。
 自分の我が儘と言いながら、励ましてくれる。

 あれほどあまのじゃくなことを言っていた彼女が静かになる。
 寝息が聞こえて、彼女の脱がしかけの服を元通りに直す。
「またお預けね」
 男はちよの額に我が儘を押し当て、眠りについた。
次の章へ
前の章へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ