スクイーズ篇 二門
□ニゲラの写し巳
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これは夢だ。一体この夢がどのくらい前から始まったのかは分からないが、突然理解した。
あたりは霧が濃く、周囲十メートルも見えない。電柱や塀があることから住宅街であることは分かる。
見目で分かることには限界がある。能力を使っての理解よりも先に夢の設定が頭に浮かび上がる。
ここから逃げないと捕まる。
定番のゾンビに追いかけられる夢だ。能力としての認識なのか夢だからわかる設定なのか、周囲にはまともに生きているものはいないのが分かる。感染して間もない理性がある者、怪我を負って動けない者、生きているもの同士で仲間割れをする者。
助けを請うのも請われるのもまっぴらごめんだ。
阿鼻叫喚に耳を閉じたくなるが、生存確率を減らすわけには行かない。ここが夢でも死にたくない。
知っている声が聞こえてしまった。
どれほど助けを求める声が聞こえても走るのを止めなかった足を止めてしまった。
「叔父さん?」
見渡しても見えず、能力でも認識出来ない。
ゾンビの群れに入りかけた時、手を捕まれた。驚く前に引っ張られ、つられて走る。
知らない男性だ。後ろ姿しか見せない。ようやく顔が見えたかと思えば、ぼやけて認識できない。
無意識に相手の名前は呼べている。呼んでいる本人である自分が誰の名前を言っているのかが分からない。
彼は休憩しようと建物の影に隠れ、ちよをコートの中に収める。
「こんなことに捲き込んですまない」
謝りながら何かを撃っている。コートに包まれたちよは音しか聞こえず、何を撃っているのか、彼がどんな顔をしているのかは分からない。様子を見ようとしても片手で胸に押し当てられ、視界は相手の胸とコートの裏地だけだ。
気がつくと自分は横になっている。コートに包まれて、相手の腕の中に収まっているのは変わらない。
夢の中の設定では“仲が良い”らしい。
時折衣服の隙間から手を入れられたり、足を絡ませられたり、まんざらでもないのでちよも抵抗どころかお返しする。
さっきまでのゾンビの夢はなんだったのか、疑念はあるが夢という自覚で考えるのを止めた。
コートがめくれ、薄暗い部屋が見えて相手の顔も見える。
「……さん」
****
「なに?」
目の前には見慣れた男性が座っている。
ぼんやりと背を支えられながら起きる。
「疲れちゃっていたみたいね」
くすくす笑いながらモーニングコーヒーを淹れると去ってしまった。
ぼんやりと自分の体を見る。夢にしては何か感触がリアルで、そわそわする。
夢の中の彼を何と呼んでいたのだろう。聞き覚えはあるが誰だったか。
さ行で、さんづけで、脳内のボキャブラリーが候補を挙げては違うと否定する。
ようやく、思い出す。
「すぐるさん」
ガシャンとコーヒーカップが割れる音がした。様子を見にキッチンに行くと、蟬ヶ沢が震えながらこちらを見ている。
「セミさん大丈夫?」
新聞紙を広げ破片を拾い集め、慌てて蟬ヶ沢も手伝う。
「……………」
コーヒーカップのSのもじが描かれた破片を拾った時に蟬ヶ沢はポツリと呟く。
「ねえ、今のなに」
「今の?」
「呼んでいたじゃない」
「ああ、夢で呼んでいた名前だよ。なんか聞き覚えはあるけど思い出せなくて。セミさんは“すぐるさん”って人知ってる?」
呆れているのか蟬ヶ沢はがっくり肩を落とし、らしくなくヤンキー座りをする。うつむきながら指先は自身を指し示し、ぼそりと言う。
「……………………目の前にいるじゃない」
「そういえばそうだった」
「………その夢の中の“すぐるさん”は何してたの?」
「………だいたいセミさん」
「詳しく」
夢の中でのふるまいを思い出す。武骨な手がちよの至るところを触っていたのを思い出す。
「やっぱセミさんじゃない」
「一体どんな私よ。勝手に人を夢の中に出しといて」
「……それは」
まんざらでもなかった。
動物のじゃれつきに近く、ある意味何も思ってなければしないだろうが、ある意味しなさすぎた。
私は何を望んでいたんだ。
“仲が良い”設定はこの現実でも変わらない。
私は。
視線を反らすふりをして首を横に振る。
「特殊性癖を開花してた」
「ちょっと、貴女の中の私ってなにしてたのよ」
「特殊……な行動だと思う」
こんな年下の小娘に手を出すわけもない。
出すような人でもないのもわかってる。
彼は申し訳なさと心配そうな顔で話す。
「う、うう、あんまり変なことはしてないつもりだけど、気にすることがあったら教えてよ?気がつかないで傷つけていたら申し訳ないわ」
「……うん」
「……怖がらせていたり、かれこれまずいことしていたら、直接言うのが難しかったら朱巳ちゃん経由でもいいんだからね」
生返事をしながら、もたれる。蟬ヶ沢はなにも言わずに両肩を支える。
こっちが確かにセミさんだ。
「珈琲ちょうだい」
「砂糖とミルクは?」
「多め」
「私と同じぐらいでいい?」
「うん」
同じくらいの味と距離で。