スクイーズ篇

□柑橘類の香水
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 いつのことだったのか、ほとんど覚えていないくらい昔のことだ。
 幼い頃、ちよが海岸を歩いていると、浜辺に倒れている人を見つけた。
 幼い私にはいくつくらいなのかは分からなかったが、自分よりも遥かに大きい体と皺の少なさで親と同じくらいに見えた。髪の毛が短く、鍛えられた太い腕やごつごつとした様子からこの人は男の人なのだろう。とても強そうだ。
 強そうな外見に反して、奇妙なことにこの人からは見えるはずのものが見えない。普通の人なら、寝ていても何かしら見えていたはずなのに。男性の頭の回りを撫でるが何も感知しない。感知が出来ない時は一つしかない。
 もしかして死んでしまったのだろうか。
 相手がとても元気がない時は見るのが大変だったことがあるので、この人もそうなのではないだろうか。
 眼を凝らしても一切視えない。ここまで視えないとなるとこの人は死んでしまったと見ていいようだ。
 死んでしまったのならしかたない。助けられなかったのは残念だが、顔についた砂くらいは払いておきたい。
 触れた瞬間、それまで見えなかったものがいきなり視え、鳥肌になった。親やその辺の大人が向けているような嬉しい、悲しい、大変といった程度ではない、それよりも遥かに強い何かだ。
 初めて見る何かを向ける大人に驚きつつも、頬についている砂を払う。 
「だいじょうぶ?」
声をかけると微かに瞼が開いた。
「……あ……ああ」
 この男の人は直接触れていないと向けている物が分からない奇妙さもあったが、それ異常に奇妙だったのは話し方だ。最初あたりは父親と変わらない話し方だったと思うのだが、気がついたら母親と変わらない話し方に変わっていった。
「なんでここに来ていたのかしら?」
「すいぞくかん」
「水族館?どうして?」
「見えるけど視えない」
彼は一瞬私の言い方に首を傾げる。
「……?ああそうね、海に入らないと見えないわね」
 魚類に限らないのだが、海の生き物の向ける向きは視るのにコツがいる。視るのが難しいが、人が向ける感情の流れよりも視ていて気分がいいのだ。
 今思えばMPLSと悟られると蟬ヶ沢に叱られるような迂闊さだったが、この男の人は少なくともちよへ害を与えるようなことはしなかった。
 起き上がった彼はちよにお礼を良いながら、途中まで歩くことを提案した。
「そういえば貴女、素敵なリボンをつけているわね」
私は頷く。当時着けていたリボンは今で言うならロリータにも使われていそうな身を飾るためのリボンで、赤い生地に白いレースが縁取られていた。色味もワインレッドで王道な髪飾りではあるが、逆に王道過ぎて誰も着けないようなものだ。
「すき」
たぶん、この時の私はとても嬉しい顔をしたに違いない。
 ここから先はあまり覚えていない。ほとんと抱えられていて、とにかく何が起きたのか教えてはくれなかったのだ。
 周囲にいた人の流れはひたすらこの男の人を視ていたような気はする。
 親がいるところに来たこと伝えると、彼はちよの目線にあわせてしゃがむ。
「怖い思いをさせてごめんなさいね。貴女がもっと大きくなった時、世界が平和になるように頑張るわ。貴女の為にもヒーローになる。大丈夫、私が守るわ」

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