スクイーズ篇
□嵐の日
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「はい、ホットココア」
「ん、ありがとう」
蟬ヶ沢が差し出した熱々のマグカップをちよは受け取る。
外は暴風雨でとてもではないが外出出来るような天気ではない。この地域、いやほぼ日本全土と言ってもいいだろう、国を覆うほどの巨大な台風がこの地域を今通過しているのだ。
台風が本土に上陸する一週間ほど前、蟬ヶ沢はちよと一緒に避難道具を揃えて、備蓄を揃えていた。
蟬ヶ沢のデザイン事務所も明日から三日ほど休みとし、三日目に他の職員の様子を見て出勤可能か聞いて人によって自宅待機にしてもらうようにした。
ちよがいる大学も既に休校となって、週が明けるまではどの科目も強制的に講義は出来ないようにしている。
「ちよは別に家にいてもよかったんじゃない?」
「暇だったし」
「親御さん寂しがるわね」
「いや、向こうも二人だし平気へーき」
ちよはPCを操作し、次に見るドラマを探している。
朝から終始テレビは台風のことで話題は変わらない。規模が規模なので放送に取り上げないようがおかしいともいえるが、ずっとこれを見ているのは飽きてくる。既にテレビは消して、ドラマを流している。
次に見るドラマを決めた。イギリスの国営放送の人気ドラマにした。流石に六十年以上も続くドラマなのでとても長い。一話乃至前後での完結の話が多いので、見る分には一時間の映画のようなものだ。
踵を返して、視聴する席に戻る。すると、蟬ヶ沢がおいでと両手を広げて、ちよを誘う。
「…………」
ちよは少しだけ口を尖らせて、ふんとそっぽを向く。蟬ヶ沢の腕の中には納まらず、隣に座るが肩にはもたれる。
これには蟬ヶ沢も苦笑いしてしまう。
「素直じゃないわねえ」
「別に、そんな雰囲気のドラマじゃないでしょ」
「シーズン2から4まではそれなりに恋愛が絡むわよ」
「なんであの俳優さんの時だけキスシーンが多いのか謎だわ」
「顔がいいからじゃない?」
「セミさんの好み?まあ、この俳優さんは男の人だけどさ」
「いや、私の好きな人は貴女よ」
しれっと言う蟬ヶ沢にちよは飲んでいたココアで咽る。
「あのさ、あのさあ!」
咽ながらちよは蟬ヶ沢をべしべしを叩くが、彼には一切ダメージは通らない。勿論ちよとて本気で叩いているわけではないので、痛くはないがやんごとなき事情で人よりも丈夫で強い体を持つ彼には痛みよりも痒みを感じていそうである。
「別に、私は貴女が男でもきっと好きになるわよ?」
顔を一切赤らめずに蟬ヶ沢は言う。ちよは反応に困りココアを再度口に付けるが、マグカップは蟬ヶ沢に奪われてしまう。奪われたマグカップはテーブルに乗せられ、二人の間に遮るものはなくなってしまう。
ちよは距離の近さに耐えきれず、後ろに仰け反り倒れる。倒れる寸前に蟬ヶ沢が左手支えたので、余計にお互いの距離は近くなる。
蟬ヶ沢は真剣な眼差しで再度問いかける。
「貴女は?」
「…………」
「断言するわ。仮に貴女が男の人であったとしても、きっとキスもしたいと思うし、私はもっと触れたい」
「や、その……」
ちよは返答に困り言葉を詰まらせる。
ちよの反応に蟬ヶ沢は困ったような照れているような溜息を付いて、額に軽く口づける。触れた瞬間、ちよはびくっと震え、顔が更に赤くなる。蟬ヶ沢には触れないと他の者のようにどんな感情を向けているのかどこを向けているのか分からない。
今額に口づけたが、本当は別の位置にしたかったのが分かった。
彼は一切言わない。恐らく、ちよからして欲しいと遠回しにねだっているのだろう。狡い人だ。
睨んでもこの真っ赤に染まった顔では彼をにやつかせることしか出来ない。
ちよを抱き起し、向かい合わせにさせる。体格の差もあって、ちよはやや上向きで蟬ヶ沢を見ることになる。
にっこりと蟬ヶ沢はおねだりする。
ちよはむっと小さく唸り、手元のクッションを取り寄せる。蟬ヶ沢の顔に押し当て、
「ばか」
と罵る。対して綿が入っていない安物のクッションは布越しだが僅かに向こう側の感触が伝わった。
クッション越しに響いた言葉と感触に蟬ヶ沢は嗜虐心を擽られた。
もう少し触れて欲しい、触りたい。まるで人の様な欲に支配されそうなのを別の側面の自分が制止する。
これでお前のお望みは済んだだろうとでも言うように、ちよはテレビに向き直る。顔を見たいところだが、ちよはクッションに顔を半分埋めてしまった。きっと次のココアを出すまではとてもじゃないが顔を見せてはくれないだろう。ただ、さきほどと異なり、腕の中に納まってくれた。
「素直じゃないわねえ」
蟬ヶ沢は苦笑いしながらも腕の中に収まるちよを抱いて、流れっぱなしだったドラマに視線を移した。
ようやく上を向いた蟬ヶ沢を確認したちよは目の前の彼の手を睨む。
嵐が過ぎるまできっとこのやりとりはまだ続くのだろうと思うと、ちよは少しばかり後悔した。