スクイーズ篇 二門

□物まね
1ページ/1ページ

 彼女がなんか可愛いことをしている。

 蟬ヶ沢はPC画面とカレンダーを交互に睨み、PCの電源を落とした。
 スケジュールとしては順調で、仮に“副業”が割り込まれてもこなせる段階だ。依頼の修正がなければ、だ。
 周囲にいるスタッフは定時で帰らせているので誰もいない。いや、一人だけ階下にいる。いつも一緒に帰るので待たせているのだ。
 メインの荷物も彼女と同じ場所に置いているので、バックインバックも持ちながら階段を下りる。
 下りながらぼろぼそと話す声が聞こえている。通常の人間なら聞こえない距離だろうが、蟬ヶ沢は事情があって通所の人よりも身体能力がある。
 扉は開けっ放しなのでそのまま覗き込む。後ろ姿が見えた。
「…………」
 彼女がなんか可愛いことをしている。
「逃げないでくれるかしら」
 橙色のスーツのジャケットを羽織り、資料の棚にもたれて話しかけている。ただし誰もいない。統和機構の携帯端末で連絡しているようすでも、遠方の合成人間に向けて話しかけている様子でもない。
「攻めてるわけじゃないの。話を聞いて頂戴」
 彼女にしては声音が低く、話し方も違う。むしろ、蟬ヶ沢に寄せているような気がする。
(私こんなに攻めるようなこと言うかしら?)
 足音を消して近づく。
「ねえ、それなにしてるの?私のジャケットまで着ちゃって」
「ひゃああセミさん!…………、見てたの?」
 あら、かわいい。恥ずかしがっている。イケナイことなのは自覚しつつ、嗜虐心が擽られる。
 ちよは一歩下がるが、蟬ヶ沢も近づく。行き着く先はそう遠くない壁で、追い詰められるのは現時点でも分かる。じりじりと後退したちよの背中は壁についてしまった。
「見えちゃった、わね」
 羞恥心で逃亡先を探しているのだろうが、窓側の隙間からしか道はない。相手が合成人間なのもあり、逃げ切れる自信もないのだろう。
 腕で逃げ道を遮る。勢いで吃驚したちよに囁く。
「逃げるな」
 ちよはきょとんと見つめる。
「……ええと、止まってくれ」
「うん」
 勢いよく逃げ道を遮ったことに罪悪感を覚える。
「ごめんなさい。……逃げないでよ?」
「逃げられる気がしない」
「それもそうね」
 一般的な男性どころかそれ以上の身体能力の合成相手なら当然と言えば当然か。
「さっきはなんであんなことしてたのよ」
「……。逃げるなとか、追い詰めたときの声って低くなるじゃん」
「うん、まあそうね」
「スクイーズの時の声って低くていい声して……るじゃん。また聞きたいなって」
 ちらっと一瞬だけ視線が合う。照れた顔がまたかわいい。この照れの要因はよりにもよって、スクイーズの、人じゃない側面の自分だ。人より出来ることはあれども、褒められることなんてなかった。好かれるものとも縁遠いはずだ。
「……あ」
 顔が熱くなってきた。
 自分は単純だ。
「セミさん?」
「違、違うのよ……。待ちなさい、待って、ちょっと見ないで」
 追い詰めてるはずなのに、追い詰められてる気分だ。
 統和機構の端末から着信が鳴る。音としては一般人には聞こえない領域の音で、ちよにも聞こえてない。
 ちらっとちよを見る。彼女は視線で察したのか、目が輝き始める。
 肩と耳に端末を挟み、ちよの両耳を両手で塞いだ。
 コンマ零秒。着信に出る時間にしては、蟬ヶ沢としては異様に早く、スクイーズとしてはほんの少し遅い。
「私だ」
 私の顔と同じくらい熱く、更に私の顔を熱くさせた。
次の章へ
前の章へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ