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□Auld lang syne
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2020
一九二六年、一二月三一日。大晦日に賑わう街の片隅で、一つの命が誕生した。
寒い冬の夜空に吐く息も白く凍り、くすんだ窓の外で雪がちらついていた。
ゆりかごを揺らして寝かしつけるうちに、白い小さな手が母親を探して空を彷徨うのに気づき、慌てて赤ん坊を腕に抱き上げる。

「おいで……トム、かわいい子」

可哀想に、まだこんなにも幼いのにこの子には乳を与えてくれる母親がいないのだ。
抱いてみると想像していたよりも存外に小さい。けれど小さくとも命を腹に宿すというのはどんな心地がするのだろうか、へその緒で繋がった重みと腕に抱き上げた重みとはきっとまた違うのだろう。
この子を産んだ母親も痩せっぽちの小さな女性だった、赤ん坊の顔を見る間もなく死んでしまったけれど。
さぞ無念だったろう、こんなにも可愛い子を置いて逝ってしまうなんて。

「トムはかわいいねえ……昔も素敵だったけど、大きくなってしまったら抱っこできないものねえ……」

彼の大きな骨ばった手を思い出す、低めの体温や、性格と裏腹に言うことを聞かない気まぐれな癖毛を。
冷え冷えとした空気の中で赤ん坊の温もりが腕の中を心地よく温めてくれる。
あの生意気で、傲慢で、独り善がりなトムにもこんな時代があったのかとしみじみ思う。
幸せな時期もあった、不器用に優しくしてくれる時もあった、わたしたちは愛し合っていると信じていた。
何がきっかけだったのか、何が彼をおかしくさせてしまったのか、凡人がいくら考えても天才の頭の中は知れない。
本当に、顔だけの酷い男だった。けれど、とても可哀想な人だった。
愛を知らず、何も持たずに生きてきて、持って生まれた魔法使いの素質だけが彼の財産であり全てだったのだ。
たった一人の男のために無理やり過去を変えようとするなんて、自分でもどうかしているのは分かってる。けれどもう自分で自分を止められないのだ。
見知らぬ時代で行く宛てもなく、赤ん坊を連れてどうしようというのか。自分でも分からない。
けれどわたしは、この子のためならどんな事をしてでも守ってあげたい。まだほんの小さな赤ん坊を、彼のように不幸にさせてはいけないのだ。
わたしは絶対に、この子を手放したりはしないと固く胸に誓う。
気づけば深夜零時を過ぎていた、遠くの方で新年を祝う花火が上がる。夜空に煌めく色とりどりの花火、抱き合ってキスをする人々の歓声がまるでこの子の誕生を世界中が祝っているかのようだった。

「――Should auld acquaintance be forgot,
and never brought to mind ?」

Should auld acquaintance be forgot,
and days of auld lang syne ?

なんとなくこの季節になると思い出とともに胸に蘇る古い歌を小声で口ずさむ。
また新たな年が始まった、今日ぐらいは誰もが穏やかな夜を迎えられますように。
朝になったらどこへ行こうか、新年の挨拶も兼ねて懐かしい恩師を訪ねてみようか。きっと怒られるだろう、いやあの方なら朗らかに笑ってくれるに違いない。
冬の夜は長い、けれど不思議と「ひとりじゃない」と心は穏やかだった。

「……新年おめでとう、トム」

眠る赤ん坊の額にそっと口づけをする。小さな頭の中で眠りの砂に埋もれて、どんな夢を見ているのだろうか。
おやすみなさい、小さなかわいいトム。どうかこの子の人生に、多くの幸があらんことを――。



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