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□北の喪心
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セラフィーナ・ピッカリーは時計を見て憂鬱そうにため息をもらしていた。
今夜の会食に出席する面々のことを考えるとどうしても気が重く、時間は刻一刻と迫っているというのにいまだドレスを選ぶ気にもなれない。
そんな上司の様子を見るに見かねたのか、部下であり良き友人でもあるグレイブスは声を掛ける。

「あなたの心を思い悩ます身の程知らずは、一体どこの誰かな」

「見合いよ」

常ならば渋い顔をするなり窘めるなり何らかの反応があるものだが、冗談交じりの軽口に腹を立てる余裕もいまはないようでタフで鋭敏な彼女にとっても今回ばかりはことは重いらしい。
グレイブスは思わず拍子抜けしそうになったが、いつも通りそんなことはおくびにもださず僅かに片眉を吊り上げたのみだった。

「見合い」

「そう」

「誰と?」

グレイブスは不躾にあけすけもなく尋ねる、ピッカリーは答えなかったが彼女にとって不本意な縁談であることは違いなかった。
若く聡明で美しい女性初の魔法議会議長がその椅子に座した当時は、戦後の米合衆国を率いるミス・リバティなどとしてアメリカ魔法界はもてはやしたが、官僚主義に蔓延る世襲制や偏見はいまだ根深い。
適齢期の女性が特別な理由もなくいまだ独身で、夫の助けを借りず職業婦人として身を立ててくことに世間の目は厳しい。ましてやそれが人の上に立つ人物となればなおのこと。
今回の縁談も大方、彼女が左手の薬指にまだなんの誓いも約束も交わしていないことを案じたお節介な仲人好きが余計な気を回したのだろう。
自身も独身であり、そういった人付き合いにおけるしがらみはかつて何度も覚えがある。グレイブスはピッカリーの苦悩をよく理解し、辟易とさえしながら同情を示した。「お気の毒」

「あなたは結婚なさらないの?」
さっきの仕返しにピッカリーは不躾に尋ねた。

「私のようなつまらん男でも良いと言ってくれる女性と出会えれば、いつでも」
決まってと答えるのが、この手の話題を振られた時のグレイブスの常套文句であった。

文句なしの名家に生まれ、財産も地位も名誉もあり、なにより人として誰より信頼できるこの男のなにが結婚を引き止めるのか。
見目も悪くないのに、とピッカリーは心の中で思った。
彼女とて結婚に全く反対というわけではない。いまは議長の職務を全うすることで正直頭がいっぱいで、夫や家庭のために時間や知力を割く余裕がないだけで、ふさわしいと思える相手が見つかればいずれは結婚という選択もあるだろう。
この年で純愛やロマンスに憧れているわけではなく、単純に世の中は既婚者でいた方がなにかと有利に運ぶことの方が多い。
財産、保険、住宅ローン……結婚は苦悩ばかりではなくなにかと特典もついてくる。
それに誰も一人で死にたくはない。闇祓いという仕事には危険がつきもの、そうなればなおさら自分が亡き後にも悲しんでくれる家族がいてくれたらと考える日も時にはあるだろう。
この先何十年か後に私たちみんな歳をとって自分のことも分からなくなった時に、広い屋敷でひとりぼっちベッドの上で死んでいることにも気づかれぬまま、何日も経ってからようやく……なんて惨めな事態は避けられる。
不幸な結婚だろうと、いがみ合う家族だろうと、ある日突然倒れたら病院にくらいは連れて行ってくれるだろう。
もし死ぬ時は現場か、病院で医師に看取られながら死にたい――誰だってそれは願うだろうに。

「実を言うと」グレイブスが不意に口を開く。

「約束はあったのです」

「婚約していたの?いつ?」ピッカリーは驚いて大きな目を見開いた、そんなこと初耳だ。

随分前のことですが、グレイブスはほろ苦い思い出に苦笑する。

「お相手は?」

口をついて出たあとですぐピッカリーは聞かなきゃ良かったと後悔した。
グレイブスは構わず淡々と答える、「死にました」

「1912年に北大西洋で、船が沈んで」

――14年も昔のことである。
彼の婚約者は一家でイギリス旅行からの帰路で、サウサンプトン港からニューヨーク行きの船に乗った。
当初船は予定通り港を出港したが、北大西洋上で氷山に衝突し船は沈没。
乗客乗員合わせ多くの尊い人命が犠牲となり、その中には数人の魔法使いや魔女たちも含まれている。
グレイブスの婚約者は一家全員死亡。彼は船が沈没したという報せを真夜中のラジオで聞き、自分と結婚の誓いを交わすはずであった女性が北の海で死んだことを知った。
ピッカリーはその時の彼の身を引き裂かれるような衝撃や喪心を想像し、あまりのショックに言葉を失う。

「可哀想に、4月の海は冷たかっただろうに」

北大西洋の寒さに比べたら、ニューヨークの冬なんて可愛らしく思えるほど。
そうぽつりと吐露したグレイブスの声色には、いまだ亡き婚約者を悼む優しさと愛情が感じられた。

会ったこともない今は亡きミセス・グレイブスとはどんな人だったのだろう、ピッカリーは心の中で密かに想像してみる。
グレイブスの隣に立つ女なのだから、きっと黒いドレスに赤い口紅がよく似合う女優のような華やかな人か……あるいは小柄でおっとりとしていて可愛らしい、彼とは全く正反対の夫婦になっていたかもしれない。
いずれにせよ彼は妻を愛し、慈しむ、良き夫や父になることだろう。
あの事故がなければ、もし彼女がいまも生きていたなら。

「私の人生はいまとは全く別の物に変わっていたかもしれませんな」




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