hpmi 2 麻天狼

□ペントバルビタール
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出勤する過程の中で、一番最初の地獄と言えばみな満員電車と答えるに違いない。私はそう思う。

だって身動ぎ1つも出来ず、体勢が悪ければそのままの格好で目的地を迎えるまで居なければならないし少しよろめこうものなら他人の足を踏まないよう気を付けなければならないし逆もまた然り、踏まれないようにしなければいけない。それなのに先述したように動けないので、避けることも出来ずその痛みを受け入れないといけないというループ地獄なのだ。加えて沢山の匂いが混ざりあい、何とも言えない湿気と温度。車両内の全てが不快と言っても過言ではない。

会社の近くに住んでいるためその距離は短く、時間があれば徒歩での出勤もできなくはないのだが、如何せん朝の時間は貴重であるため電車を選ぶことが多い。少なくとも私はその短時間の満員電車でも最大の苦痛を感じる。その苦痛は通勤ラッシュだけで十二分なのに、今から少し遠い営業先に行っていたため会社に戻る電車に乗らなければならないのだ。
時刻は18時。丁度帰宅ラッシュですよ、ええ。既に就労時間は過ぎているが帰った先のデスクで仕事が私の帰りを待ちわびているため残業は確定事項です。

今からの満員電車と先の見えない終業に鬱々としていると、既に箱詰め状態の電車が到着しその扉の向こうに意気込んで足を踏み入れた。そして案の定人の波に押され、入った反対側の扉の方へと押し込まれる。これ以上は無理!というのにまだ押してくるか、この…っ!
よろめきそうになったのでぐっと足に力を入れて踏ん張っていると、頭上から名前を呼ばれる。

「美鷹主任?」
『あ…観音坂さん。偶然ですね…直帰できそうですか?』
「いや、残念ながら…」
『そうですか、ちなみに私もです…』

おや、と顔を上げると最近仲良くしている。と私は思っている観音坂さんだった。はぁ、とお互いに残業への憎しみをため息に込めて吐き出す。

次の駅で人が降りていくがまた乗ってくるため状況は変わらず。というか乗ってくる人が上回り悪化した。ぎゅう、と観音坂さんとの距離が更に縮まる。

『……』
「……」

密着する身体に、なんとも気まずい空気が流れる。無心無心。心頭滅却。と心の中で唱えるも、イメージと違いがっしりとした身体に意識がいく。いや仕方ないことだと思いたい。元より太っていると思ったことはないのだが、イメージ的に言葉は悪いがヒョロっとしてガリガリなのではないかと思っていた。しかしスーツ越しでもちゃんと筋肉が付いていそうなことがわかる。ああ、まるで変態だ。

ガタンッ

「うぉっ、!」
『きゃっ、』

車体が揺れ、車内の人の重心が傾き皆がよろめいた。観音坂さんが私の方によろめくも、間一髪で壁に腕を付いて私が潰れることは免れる。免れた、のだが観音坂さんの片足は私の足の間に割り入り、ほんとにほぼゼロ距離で頭皮に彼の吐息が感じられる程。ふわりと女性みたいに甘い香りではなく爽やかな香りの柔軟剤の香りが鼻を擽る。

「す、すまん…!わざとじゃないっ…!」
『は、はい、分かってます!というか、ありがとうございます。すみません、庇ってもらって…』
「も、もももももうすぐ最寄りなので我慢してくれ…」
『うううううう、うん、大丈夫!』

状況にパニックに陥っているのか観音坂さんの敬語も外れていた。斯く言う私も、パニックだ。色々な事柄で男性だということを覗かせる彼にドキドキと鼓動は大きく脈打っていた。何時もは不快な車内の匂いが遮断され、あまりの近さにより彼の微かな汗と柔軟剤の香りだけが私の鼻腔を満たす。

何時もとは違う居たたまれなさに、早く下車駅に付いてくれと願った。それから無言のまま、少し鼓動が落ち着きだした頃に目的の会社の最寄り駅に到着する。

「お、降ります…!」

開いた扉とは反対に居たため、人の合間を押し退けつつ降りようと声を上げる観音坂さん。彼が私の手首を持って連れ出してくれ、手首を掴む大きな手のひらの温度にまた私の心臓が騒ぐ。
やっと落ち着いたのに…!下車して密閉された空間からの脱出に息を付いた時。観音坂さんがばっと両手を上げて謝り倒す。

「あばばばばばば!!!すっ!すみませんすみませんすみませんすみませんっ!手を掴んでしまったのもそうですが車内での非礼もなんと弁解していいのか分かりませんが不可抗力といいますか、いやでもこんな加齢臭と営業終わりの汗臭いおっさんと密着とかセクハラ…もはや拷問ですよねその上合意も求めず女性の腕を掴んで引っ張るだなんてなんて俺は最低なんだ、大変申し訳ない!どう考えたって俺が悪い…何をしたら許してもらえるのか…いや許してもらおうなんて考えが甘過ぎて反吐がでる…社会的地位を放棄してでも…」
『えっ?えっ?』

あまりのマシンガンネガティブトークに私の思考が追い付かない。待って息継ぎしてる?息してる?あ、多分これ精神的に生きてないな。

『観音坂さん…私、これっぽっちも怒ってないんですけど。』
「はっ?え?」
『いやいやそんな信じられないみたいな顔しないでよ。流石にあの人の量だと余裕はなかったけどちゃんと私が潰れないように肘を付いて空間を作ってくれたの分かったし、ぺちゃんこにならずに済んで助かったよ。ありがとうございます。』
「…優しすぎるんだが大丈夫か?」
『フツーですけど大丈夫よ。ほら、私たちを仕事が待ってます。れっつごーごー!』
「うっ…このまま帰りたい…」
『…それには私も同意見。』


慌てふためく観音坂さんをみていると冷静になり、鼓動も平静に落ち着いた。気の許せる同僚なのに頼れる一面を見て少しときめいてしまった秘密は、私の胸の奥にそっとしまっておく。
さぁ、さっさと仕事を終わらせて次電車に乗るのは帰宅の時ですよ。と観音坂さんの背中を叩いて戦場に足をむけた。





5.満員電車から連れ出して


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