hpmi 1 BB

□カランコエ(一郎連載@)
29ページ/66ページ




夜勤が終わり、寝ぼけ眼で帰路に着いていた。

ぼーっと人の波に任せて思考を止め、ただただ歩いていたその矢先。キィィィィィィン!と高い音が鼓膜を揺らしたかと思えば突然の頭痛が私を襲い音が消えた。




─29,音のない世界─





言葉通り、無音が広がっている。どういうことか。私も混乱している。周りの人たちも何だか慌てているようだが音はない。ありえない。雑踏すら聞こえず、人の声も聞こえない。ないことだらけだ。


ドンっと背中側から身体に衝撃が与えられ、転んでしまった。ぶつかられたみたい。後ろに人が居ることも気づけなかった。えもいわれぬ恐怖が私を襲う。怖い、怖い怖い。急いで立ち上がり、道の端に寄って震えた手で携帯を取り出した。画面に一郎の名前を探しだして発信ボタンを押す。

ああ、仕事だったかな。携帯はうんともすんとも言わない。画面を耳から顔の前に持ってくると、通話中という文字と、0:23と時間が表示されていた。繋がっていたんだ、そうか、聴こえないから気づかなかった。

もう混乱していてそんなことすら分からなくなってしまっているようだ。気が動転して思わず電話を切ると、手のひらから振動を感じる。画面を見ると、一郎から電話がかかってきたがもう訳がわからなくて着信を切ってメッセージ画面を開き文字を打ち出す。


たす、けて──・・・


震える手をおさえるのに祈るようにスマホを握りこんでいると、すぐに一郎のメッセージが届いた。


〈どこにいる?大丈夫だ、すぐ行く。〉


バス停から自宅へ向かう途中であり目印の建物を伝えて道の端に寄って一郎を待つ。静寂の中のその時間はとても、長く感じた。胸の前で携帯を握りしめて待つ私の肩をぎゅっと捕まれる。ビクリと体を震わせて顔を上げると汗を光らせた一郎がいた。


きっと私の姿が見えて何度も声をかけてくれたのだろう。今も聴こえない。上手く発音出来ているかよく分からないけど、文字で打つより早いはず。呼ばれても反応できてない私の様子を見てある程度察していたのか一郎はゆっくり頷き、携帯を触って画面を私に向ける。


[とりあえず、寂雷先生のところに行こう。]



頷いて差し出された大きな手を握ると、とても温かくてぽろりと涙がこぼれた。
病院に着けば、現場から近かったためか患者が多く待合室で順場を待っていた。筆談で外来看護師と話している様子が見られ、私と同様の症状が現れているのだろう。問診票を書いて診察の順番を待っている間、手を握るか背中を支えてくれている一郎に私の不安は軽減されていた。


きっと騒がしいこの場所でもやはり一切音が聞こえない。順番がきて呼ばれたのも気付けず、一郎が手を引いてくれた。一緒に診察室に入ると、一郎が一緒だったとは思わなかったのか寂雷先生は少し目を見張った。




診察の結果、鼓膜が破れていたりもせず、眩暈などもみられず耳の機能などの身体的に異常はみられなかった。だからといって耳が聴こえていないので、今の仕事もできないため休暇が与えられた。


原因としては違法マイクが起動したことが考えられる。その精神干渉をうけ、身体的ではなく精神的なもので聴力を失ってしまったのだろう。いつまで効果が続くかは分からない。と、一郎がかわりに説明を受けてそれを文字に置き換えて私に伝えてくれて私は事態を理解することができた。。
とりあえず体の変調があればすぐに連絡、受診するように伝えられ、病院から近い私の家に帰る。


[春、わりぃ。仕事抜けてきちまってて一旦戻らなきゃなんねぇ。]


申し訳なさそうに携帯の画面を見せる一郎に顔を横に振ってみせた。


"むしろごめんね。もう家からも出ないし、私は大丈夫"


そう微笑んで画面をみせ、後ろ髪を引かれながらもイケブクロに帰っていく一郎の背中に手を振った。



帰ってきたのは昼過ぎで外はまだ明るかった。ゆっくり日は傾いていき夜が訪れる。


─────静かだ。


テレビは今時だと字幕が出る仕様にもできるため見ることが出来る。アプリを開き、ゲームを進めていくが推しのボイスも聴けなければリズムゲームも出来ない。ツラくてすぐ閉じてしまった。ラノベでも読もう。小説なら、聴こえなくても楽しめるはずだ。



時間も過ぎていき寝ようとベッドに入る。明るい間は良かったが、暗いと視界も奪われたような錯覚に陥った。聴こえている時でさえ寝る前に考え事してしまう事がある。その時だって時計の秒針の音、窓の外の騒音など無音になることはないのだ。


急に恐怖が私を襲う。
こわい。静かなことが。
こわい。聞こえないことが。
こわい。彼の声を聞く日々が取り戻せるのか。
こわい。この世界で独りのように感じて。



がばりと起き上がって電気をつけて、リビングに向かう。ソファーにブランケットを体に巻き付けて座ってテレビもつける。やっぱり聴こえない。今日はこれを何度唱えただろうか。目覚めて夢でした、なんて展開はないのかな。その日はそのまま明るい部屋で眠った。





しかし、何度寝ても覚めても夢ではなかったし音を取り戻すことが出来なかった。寝室では寝ておらずずっとリビングで過ごしている。ベッドで寝たのは夜勤前に寝たっきり。遂に5日目が終わろうとした夜。私の精神は限界に近付いていた。
あれから一郎とは連絡を取り合っているがわたしは心配する一郎に大丈夫とひたすらにそう送っていた。最初は不安はあったものの、そのうち戻るだろうと心のどこかで思っていたが日が経つにつれてその期待の光が遠退いていく。

音がない静寂に、押し潰されそうだ。


どうしようもなくなって、気付いたら一郎に電話をかけていた。発信中の画面を眺めて、通話中になるのを待つ。通話中になるも無音。彼が話しているかもしれないが、たすけてと声を絞り出して伝えてしまった。



全然大丈夫なんかじゃなかった。やっぱり私は弱くてこうやって一郎に頼るしかないんだ。ぐずぐずと鼻を啜っていると、画面は通話終了を知らせてきた。伝わったかどうか、一郎の今から行くのメッセージが示していた。






ごめんね。






次へ
前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ