黄金神威:GoldenKamuy

□水攫い
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最近、まるで自分の記憶が無い。
産まれた時のことはもちろん、育った場所さえも思い出せない。否や、記憶が抜け落ちたと言っても過言ではない。
俺は蛇の生まれだった。
親は分からない。殺す勇気が無くて捨てたんだろう。
首元と腕には、マダラに鱗が浮かんでいる。
撫でればサラサラと音を立て、逆撫でをすれば不気味に鱗が立つ。
全部、この鱗のせいだ。
布で隠しても、俺の姿を見たものは皆俺を避けた。
人を食うだの不気味だから近付くなだのと好きに言ってくれた。

住処を転々とした。
だが蛇の俺に暮らす場所など無いに等しかった。
過ごしやすいと言えたのはジメジメとした場所か、川縁くらいでしかない。
それに長寿で姿の変わらない姿を知られてはいよいよ殺されるに違いない。
川の水面に映る自分の白抜けした顔を見る。
何時になれば死ねるのか、また一人で死ぬのかと、ただ漠然としていた。

ある日の昼下がり。
川面が夏の陽の光に反射する川縁に目を向けると、鼻歌交じりに川に足を向ける一人の若い娘がいた。
まだあどけなさが残るその娘は、川から足を上げ、木の影にひっそりと隠れてはシクシクと泣いていた。

「若い女が山奥の川に一人とは、身売りにあったか?いいや、夜這いにでもあったか」
「身売りの方がマシだったよ。」
「まぁそんな睨むな。」

湿る苔の上。
娘は裸足だった。真っ白な肌が苔に映えている。

「お兄さんはここの人?」
「⋯多分な。」
「多分って?」
「もう覚えてねえんだよ、ここに来た時のことを。」
「若いのに変な事言うなぁ⋯。」

娘に近付いた代わりに、鱗を隠すための布がでろりと足元に緩く垂れてしまった。
剥き出しになった腕の鱗に、娘の視線が刺さる。

「お兄さん、蛇?」
「バレちまったか。」
「お兄さんのは真っ白できれいなんだね。」

小さな手がスルスルと腕を撫でる。優しく誰かに触れられることなどまるで無かった。
人に触られる時は、殴られる時。それくらいの認識でしかなかったから。

「お前、怖くないのか?」
「怖くないよ。お兄さんは、鱗のない私のことが怖いと思うの?」
「怖くねぇなぁ⋯、どう見てもガキだからな。」

クスクスと笑う声が聞こえた。
ああ、バツが悪い。勝敗のつかない勝負を延々としている気分だ。

「名前、教えろ。」
「名前っていうの。お兄さんは?」
「⋯百之助。」
「じゃあ百ね!」
「百之助だって言ってるだろ。」
「えぇ〜、百の方が呼びやすいよ。」
「勝手にしろ。」
「百!」
「うるさい。」

この日から、名前とは山に行けば顔を合わせるようになった。
名前は元来明るい質のようで、ジメジメとした俺とはまるで正反対だった。
だが一緒に居れば心地よいのは間違っていない。
一日名前の声が聞けない時は、頭のどこかで「寂しい」と思っていた。
記憶が抜け落ちたとは言ったものの、ここ最近では名前に出会った時のこと、名前と一緒にしてきたことしか思い出せなくなっていた。

***

「ねぇ、百」

深緑色に揺らめく河底を眺めながら、木に寄りかかる名前が口を開いた。

「もう何月か前⋯私は父さんと母さんと兄さんとで、山を超えた先にある里に住んでたんだ。」
「ほう、それで。」
「皆、流行病で死んじゃったんだ。私を残して。」
「なんで里から出たんだ?」
「私一人が生き残ったから、里の皆には白い目で見られた。だから里を出て、ここで暮らしてるの。」

下向きがちな名前の目が、チラリとこちらに向いた。

「俺も、お前と同じだ。
俺は人と違うから、人の居る場所で生きていけなかった。⋯今こうやって話をしてるお前を除いてな。」
「百と一緒に居るのは楽しい。
百とお揃いだけど、もう一人じゃないね。」

笑みを浮かべる名前。
耳元で何かが轟々と鳴る音が響いた。
岩でも落ちるか、崖でも滑るか。いや、これは血の巡る音だ。
俺が名前を心から好いていたと知るには、少し遅すぎたのかもしれない。

「名前、俺の嫁になれ。」
「⋯え?」

口をぽかんと開けたままの名前。

「お前が俺の嫁になれば、ずっと一緒だ。もうお前が一人になることなんてない。」
「ま、待ってよ、」
「お前は夜が来る前に俺の傍から居なくなるだろう?」
「それはそうだけど⋯」
「朝でも夜でも、ずっと一緒に居られる場所ならある。」

息がつかえたようになっている名前の、喉をすうっと撫でる。
上下する肩を掴めば、潤んだ目がしっとりと見つめる。

「俺と一緒に川の底に沈めばいい。
俺の息がなければ、お前は水の中で生きられない。
そうすれば、お前は死ぬまで俺に頼って生きるしかないだろう。」

後退る名前の脚に自分の脚を絡める。
ぐっと近くなった距離に、我ながら興奮を覚えてしまう。

「なぁ、お前が俺の嫁になるって、どんなお伽話よりもいい話だと思わないか?」
「嫌!離して⋯!」
「そんな釣れないこと言うなよ。
もう俺たちは立派な夫婦なんだからよ。」

離さぬ様に抱き締めて、嫌がる名前と共に川に浸かる。名前の身体が華奢であったことが救いだ。
首まで浸かる水に怯える顔も、また見たこともないくらいに可愛いと思った。
嫌だ嫌だと喚く声も、そこはかとなく唆るものだった。
頭の先まで浸かった時に口づけてしまえば、名前は水の中でも生きていける。こんなに嬉しいことは無い。

揺蕩う名前の髪を避けながら口づけて、光のない川の中へ沈む。

「ずっと一緒だ。死ぬまで、ずっと。」

力の抜けた名前の身体を抱き寄せる。
泡すら浮かばぬ水中に堕ちる名前の姿が、何よりもきれいだと思った。



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