Lyrics

□「Lyrics」
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翌日。
事務所の革張りのソファーに仰向けで寝転ぶ左馬刻は、右手の中のスマートフォンを睨み付けていた。
連絡する勇気が出ない訳ではない。
時刻的にも独歩は昼休憩だろうから、むしろ今が調度良い時間帯だ。
左馬刻が困っている理由はただ一つ。


「アイツに休みってあるのか…」


そう、随分前に麻天狼の釣りに同行した乱数が言っていた。
その日、独歩は億年振りの有給を取れて喜んでいたと。
電話をかけて食事に誘って、仮に独歩に行く気があったとしても、休みが無いので行けないと言われたら。
そこで左馬刻は詰むことになる。


「俺様がアイツの会社にカチコミに…」


言い切る前に頭を振った。
そんなことをすれば本当に全てが終わる。
乱数にも何て言われるか分かったものではない。


「ああクソがっ!」


事務所内に響き渡る大声で叫びながら勢い良く起き上がった。
あれこれ考えるのは左馬刻の性に合わない。
休みが無いと言われたら、その時また他の解決策を考えれば良い。
しっかりと座り直して通話ボタンをタップした。

無機質な呼出音が妙に大きな音に聴こえる。
一音一音が耳を刺してくる様で、左馬刻は自身が緊張していることを自覚した。


『…も、もしもし』


通話が繋がったと思うより早く、起き上がった時より勢い良く、その場に立ち上がった。
何故立ち上がったのか自分でも分からなかった。


「お、おう…今、大丈夫か?」


そう言ってから独歩は左馬刻の電話番号を登録していないことを思い出した。
先に名乗らなければと慌てて口を開いた瞬間、


『あっ、ハイ…昼休み中です』


当然の様に独歩が話を続けて面食らう。
ろくに会話すらしたことが無いのに、相手が左馬刻だとすぐに認識した。
勝手に口角が上がってしまう。
ようやく体の力が抜け、再びソファーに腰を下ろした。


「わりいな、昨日の今日で電話しちまって」

『い、いえ。大丈夫です…でも驚きました』

「だよな…」


2秒くらいの沈黙、左馬刻の体感では30秒くらいの沈黙が流れ、焦った彼はまた勢い良く立ち上がった。


「お前さっ!好きな食い物何だっ!?」

『えっ!』


本当は、終電まで残業した昨日から今日また朝から出勤していることを少し労って、二言三言話した後、スマートに好物を聞いて食事に誘うつもりだった。
それなのに現実では空いている左手を全力で握り締め、腹に力を入れ、スマートには程遠い質問をしてしまった。

終わった…
咄嗟にそう思って左手から力を抜き、顔を覆ってソファーに沈んだ。


『えっと…好きな食べ物ですか…
さ、魚とか…えっと、魚介類が好きです』


乱数に泣きつくしかないと考えていた時、戸惑いながらも素直に答える独歩の声が耳に届き、我に返った。


「魚っ!?」

『えっ、あ…っ!
つ、つまらない答えですみませんっ!』


フリーズしていた左馬刻の脳内がフルスピードで動き出す。
魚料理ならヨコハマにあるあの料亭が良い、いやでも独歩の帰りのことを考えたらシンジュクが良いだろう。
シンジュクにも何店舗か良い魚料理の店を知っている。
広く魚と言っても特に好きな種類を聞かないと、いや、先に休みがあるのかどうかを…


「お、お前、休みとかあるのか?」

『えっ、や、休みですか?
いえ、今週は土日も…あ、でも、明日からは急ぎの案件が無くなるので…しばらくは早めに退勤出来ます』


答えを聞いて左馬刻は目を瞑り、一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
いつの間にかまた左手を強く握り締めていたが最早それには気付かない振りを決め込む。


「お前の都合良い日で構わねえから、一晩だけ俺に付き合ってくれねえか」


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