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□名刺
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「初めまして。よろしくお願いします」

目先の彼は目を細め、私を優しく見つめる。微笑んだその口元には小さく可愛らしいえくぼが存在を主張していた。

「はい。お願いします。えっと、確か…」
「キム・ナムジュン、防弾少年団のリーダーをしてます」
「ああそうだ、そうでしたね。ごめんなさい私…あんまりメディアに詳しく無くって」

申し訳なさそうに言うと、彼は優しく微笑んで小さく首を振る。

「大丈夫ですよ。今知ってもらえただけでも嬉しいです」


先日、仕事先のお得意さんから「いい人を紹介してあげる」となんだか胡散臭い言葉を言われ頷いたしまったが故に知らない相手とこうして食事をする羽目になってしまったのだ。だが、駆け出しのデザイナーにはどんなに小さな縁も大事にしなければならない。仕方なくこうしていつもより少しオシャレをして街に出たわけである。

「にしても、本当に急にすいません。大事なお得意様のご提案だったので…」
「こうやって言うのはあんまり良くないんでしょうけど、割と強引に決められますからね、あの人」
「そうなんですよ、ほんとうに」

困ったように言い訳を繕うと、相手の彼は年相応のちょっと悪い顔をして笑う。さすが世界的人気アイドルだ。どんな顔も輝いて見える。
あまり実感は湧かないが実はものすごい体験をしているのではないかと思いはじめた。アイドルなんてろくに知らなかったが、ファンの子達なら命を失ってでも得たい機会をなんの代償もなく得ている。そう意識するとなんだか申し訳ない気持ちで手が震えた。変な汗が背中を伝う。

「あの、」
「っ、は、はい」

慌てて彼を顔を上げると、予想以上の声が出てしまい恥ずかしくて顔を覆った。こんなオシャレなお店で何ともはしたない。完全に浮いている。

「あはは。緊張してますか?」
「いや、そんな、緊張なんて…」
「ホントですか?」
「…してます」
「やっぱそうですよね」

くふふと笑う彼は仕草全てが丁寧で可愛らしい様に思えた。(変に力が入っていて時より「ん?」と不安に思う時もあったが)
アイドルをあまり知らないけれど彼はかっこいいと思う。愛らしくて優しい。人柄もよくて色んなことに気配りができる。きっとそんな所がファンは好きなんだろう。そりゃ、愛されるわけだ。

「こんな高級そうなお店、来たこともなかったので…」
「ゆっくりでいいですよ」
「頑張ります」

ゆっくりと皿に乗っている肉にナイフを通せば柔らかい感触がカトラリー越しに伝わってる。高そうなお肉…。もう一生食べることないかもだし、味わって食べておこう。

「あっ、名前。名前を聞いてなかったんです。あなたの」

お肉を頬張り出した途端にそう言われる。が、こちとら今後食べることの無いであろう肉を味わっていた最中だったので、さぞかし間抜けな顔で、

「ふぬ?」

と、相槌とも取れないような声を出してしまった。

「よく噛んでくださいね」

と、これはまた可愛らしいんふふというこもった笑い声をあげる。

しまった。完全に浮かれていた。社会人にもなってこんな子供みたいなはしゃぎ方は無いぞ私。しかも、初対面の人の前で。やってしまった…何たる愚行。
ひとまず口に含んだものを飲み込んで、口元をナプキンで拭き取る。

「お見苦しい所を」
「いやいや全然」
「ええっと…そうだ、名前。申し遅れました。デザイナーをしております。リノと申します」

背筋を伸ばしかしこまった態度で胸元から名刺を取りだし、相手に渡す。受け取った彼はその名刺を見つめてふんふんと首を振った。すると、名刺の角を見てまた笑みを浮かべる。

「?何かありましたか?」
「この角のキャラクター、かわいいなって思って」

そういえばそんなものを描いた記憶がある。印象づけるためにもそれなりに可愛い愛着の湧くようなキャラを生み出して手書きをしたっけ。にしても、自分の描いたもの、作り出したものを褒められると気分がいい。この仕事を始めて、やりがいを感じる瞬間はやっぱりこういう時だ。

「ありがとうございます」
嬉しくなって、私も笑顔でそう答えた。




あの後、緊張も解けてきたのか、食事もちゃんと味を感じるようになり、受け答えもスムーズに楽しく過ごすことが出来た。
たわいもない話をした。幼少期のこと、自分の描く未来像、身近な人の話。最初はあんまり乗り気じゃなかった食事会もちゃっかり楽しんでしまっている。
何よりこのナムジュンという人。本当に話しやすい。こちらの会話のワンフレーズを拾っては会話を深め、相手のことを知ると同時に自分のことも伝え、アピールする。会話のテクニックがピカイチだと思った。そんなこんなであっという間に時間は過ぎ、食事会がお開きとなった。

帰り際。

「今日はありがとうございました。楽しかったです」
「僕も楽しかったです。また、ご一緒してもいいですか?」

嬉しいお言葉だ。またこの楽しい食事会が開かれるというのだ。断る理由もなく、上機嫌のまま

「喜んで。楽しみにしてます」
と、答えると。
「その時は僕からリノさんを誘います。それではまた」
そのまま手を振って、後ろを向き歩き出す。



あれもしかして私、名前呼ばれた???


_____________



夜の風が心地よく吹く。上機嫌の熱をいい感じに下げてくれる夜。
なんとも有意義な時間だったのだろう。勉強になることも多く、色々なことを思い出す時間だった。

ふと立ち止まって、下げていた鞄から先程の名刺を取り出す。
黒文字の名前の左下に、ボールペンで描かれた犬のようなキャラクター。おっとり間抜けな顔をしていてなんとも言えぬ可愛らしさ。ちょっと抜けている部分は彼女に似ているのかも、と思うとまた笑みが自然と出てしまう。

そっと、その名刺にキスを落とす。
もっと、彼女を知りたいと思う。
知らないこと全て。
この僕が。


「リノ」

小さく、彼女の名前を呼べばその声は夜闇に紛れて消えていった。



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