新選組史跡ガイド
□蝦夷(北海道)
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咬菜園跡(函館市船見町)
咬菜園跡
説明案内板
弥生坂を登って行った先の左側、個人宅の庭に上記写真の案内板が建立されている。
ここは安政4年、名主で慈善家として知られた堺屋新三郎が、箱館奉行から1140余坪の土地の払い下げを受け、ここに庵を作り、各地の名花、名木を移植、箱館第一の名園として親しまれた。
「咬菜」とは「粗食」のことで、五稜郭設計者・武田斐三郎が名付け親である。
明治2年、箱館戦争の際、新政府軍艦が品川を出港したとの報に接した旧幕府軍総裁・榎本武揚は明治2年3月14日幹部6人と共に、今宵最後と一夜の清遊をこの咬菜園で試みた。
箱館奉行並・中鳥三郎助は、俳人としても知られ、数多くの秀作があるが、
「ほととぎす われも血を吐く思い哉」
「われもまた 死土で呼ばれん白牡丹」
の辞世の句などはこの時残したものである。
■住所:北海道函館市船見町3-8
■交通:^電停「大町」。徒歩8〜10分(個人宅敷地内)