新選組史跡ガイド

□大阪
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八軒家船着場跡
(大阪市中央区)





八軒家浜付近全体


八軒家船着場跡碑


 歴史的な交通の要衝。
江戸時代には京都伏見と大坂を往来した三十石船の船着場であり、八軒の船宿があったことから八軒家の呼称が生まれたという。
京都と大坂、西国をつなぐ要衝であり、浪士監視など新選組とのかかわりが深い所でもあった。
現在は、ビルが立ち並ぶ景観でかっての面影はないが、石町の一部に八軒家浜の面影を残す階段が残されている。
大坂に着いた新選組は、八軒家に布陣し、翌日7日になって大坂城に入る。
 しかし6日夜、将軍・慶喜が密かに大坂城を脱出し、軍艦開陽丸で江戸に引き上げたことから、城内は混乱を極めた。
6日にははやくも出火(放火説がある)があり、敵の侵攻と勘違いした負傷者が自殺するなど統率秩序の喪失をうかがわせる。
新選組は、再び城を出て八軒家に布陣。
八軒家は淀川水運の要衝、熊野街道の起点、そして天保山(大坂港)と大坂(城)を結ぶ要地だった。
将軍の存在しない大坂城ではなく、八軒家を掌握した新選組の行動は秀逸で、城の外に布陣することで、治安対策も含む効果を上げることができたと推察できる。
 旧幕府軍は総退却となるが、新選組関係者が幕府艦船(順動丸富士山丸)に乗船して江戸に引き上げることができたのは、最後まで統率と指揮能力を喪失しない部隊であったからだろう。

 順動丸は1月9日、富士山丸は10日に江戸に向かう。その富士山丸には近藤芳助山崎蒸(実際乗艦していたかは謎)などの負傷者と近藤勇沖田総司が乗船していた。
紀州沖で山崎蒸が死亡し水葬を行い(諸説あり)、1月15日に江戸に到着。




■住所:大阪市中央区北浜東の天神橋南詰め、大川南岸
■交通:^京阪線/t市営地下鉄線「天満橋」駅から。徒歩すぐ





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