新選組隊士人名事典


【さ】 38件

【斎藤 一諾斎 (さいとういちだくさい)】

文化10年〜明治7年12月18日
(1813年〜1874年12月18日)

僧侶。後、新選組隊士。武蔵国江戸出身。名は秀全。号を一諾斎と言う。
※有名な司馬遼太郎著『燃えよ剣』の中では斎藤一の変名とされているが、斎藤一とは全くの別人。
幕臣の家に生まれる。
文化15年(1818年)6歳の頃、浅草今戸の潮江院にて出家。駒込吉祥寺の僧となり、潮江院・慶養寺(今戸)・東地院(甲斐国山梨郡)・全福寺(同国都留郡強瀬村)の住職を歴任した。
しかし、慶応4年(1868年)3月に甲陽鎮撫隊(新選組)が甲州へ訪れると、56歳にして入隊。入隊を勧めた隊士に快く応じたと言われる。(慶応3年の土方歳三による隊士募集で既に入隊していたという説もある。)
甲州勝沼の戦いに敗れた後は、土方と共に宇都宮・会津への転戦。蝦夷地には渡らずに仙台で新政府軍に降伏した。
戦場を脱する際、土方より餞別30両を渡され、その気遣いにいたく感動したと言う。
釈放後、多摩郡中野村(現、八王子市由木中野)に定住して学校を設立。土方家や近藤家、佐藤家と深い交流があり、明治7年に斎藤が死去すると、同家らによって八王子市大塚観音堂に顕彰碑が建てられた。享年62。
墓所は八王子市堀之内の保井寺。






【斉藤 秀全 (さいとうしゅうぜん)】

生没年不詳

★[島田魁文書]
(京都より会津)/局長附人数
★[会津在陣者名簿]
機会方頭取






【斉藤 清一郎 (さいとうせいいちろう)】

生没年不詳

★[幕府召抱え名簿]
平同志。
★[島田魁文書]
(京都より会津)にも名がある。
江戸にて脱走 とのこと。






【斎藤 一 (さいとうはじめ)】


斎藤 一






【佐伯 又三郎 (さえきまたさぶろう)】

生年不詳〜文久三年8月10日
(?〜1863年9月22日)

副長助勤。
出身は長州藩あるいは江戸とされる。
壬生浪士に斉藤一と参加した、とされている。
京都守護職・松平容保の前で、平山五郎と剣術の試合を披露している。
芹沢一派と行動をともにしていた。
京都嶋原で、何者かの手で殺害された。
出自不明で、長州藩、あるいは幕府、いずれかの送り込んだ間者だった。
そのため、同時期に参加した斉藤と二手に分かれ、密偵をしていた。
芹沢の持ち物を盗んだ、又、佐伯が佐々木愛次郎を殺したため。又、愛次郎の妾、あぐりを強姦したため、あぐりを欲しがっていた芹沢に殺された又、新見が殺害した。
長州の間者が新見で、それを探っていた佐伯が、新見に誘殺された。
又、長州藩士が殺害した。島原で複数の長州藩士にからまれ、なぶり殺しにされた。
又、スパイとしての行動に落ち度があった、あるいは二重スパイ行為がばれた。もともと、久坂玄瑞の配下であり新撰組隊内に潜入していたが、佐伯の怠慢で情報を久坂に流さなくなり本格的に新撰組に身を置くようになったので久坂に殺されたなどなど枚挙に暇が無い位、その死亡には諸説がある。
さらにその出自も長州説、江戸説がある。
佐伯の謎の解明は、当時の関係資料や、当時の関係者の証言の少なさから、不可能に近い。






【酒井 兵庫 (さかいひょうご)】

生年不詳〜慶応元年7月頃
(?〜1865年7月頃)

会計方。摂州住吉の人。池田屋事件に参加。15両の褒賞金を受けている。
新選組行軍録では、原田左之助と山崎烝の間に名を連ねている。
酒井は慶応元年7月頃に脱走。脱走の理由の説はいくつかあるが、一番有力なのが次の説である。
酒井は会計方の仕事にある死体埋葬をしている内、それが恐ろしくなり脱走。というものである。
のちに沖田総司らの手で斬殺と伝えられている。脱走後に斬殺されたものとされる。板橋の墓碑に名が刻まれている。






【酒井 要二郎 (さかいようじろう)】

生没年不詳

箱館新選組一分隊。
弁天台場で降伏。






【坂本 友衛 (さかもとともえ)】

坂本巴とも。
白戸友衛が箱館戦争期に名乗った別称。






【坂本 平三 (さかもとへいぞう)】

生年不詳〜慶応4年1月6日
(?〜1868年1月30日)

局長附。
慶応3年(1867年)10月頃の江戸における隊士募集に応じ入隊。
横倉甚五郎の名簿に局長附とある。
翌年1月3日から始まった鳥羽・伏見の戦いを経て、1月6日、橋本の戦いで戦死。
御香宮神社の名簿に名がある。






【佐久間 恪 (さくまいさし)】

三浦啓之助が明治3年(1870)に改名した名前。






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