新選組隊士人名事典


【い】 64件

【飯田 七九郎 (いいだしちくろう)】

生没年不詳

平同士。






【飯沼 粂之進 (いいぬまくめのしん)】

生没年不詳

平同士。






【家木 将監 (いえきしょうげん)】

生没年不詳

壬生浪士組からのの隊士。
文久3年5月頃に入隊し、同月25日の「幕府提出上書署名者一覧」に名前があるが、同年7月の「在隊者リスト」には名前がないことから、それ以前に離隊したものと考えられる。






【家里 次郎 (いえさとつぐお)】

天保11年〜文久3年4月24日
(1840年〜1863年6月10日)

伊勢松坂小林清右衛門の次男として生まれる。
文久3年に浪士組に参加。京につくと近藤勇、芹沢鴨、殿内義雄らとともに京に残る。その後主導権争いで殿内は暗殺、根岸友山も脱退し、孤立し出奔した家里は、大坂にいたところを芹沢に切腹させられた。なお、家里次郎の死からわずかひと月足らずの5月18日、兄である儒学者・家里松・も京都にて何者かによって暗殺されている。






【五十嵐 伊織 (いがらしいおり)】

生没年不詳

会津藩出身。
箱館新選組一番隊。
明治2年5月12日負傷。
弁天台場で降伏。






【伊木 八郎 (いぎはちろう)】

生没年不詳

大阪の出身といわれる。
入隊は文久3年秋以降。
元治元年6月5日の池田屋事件では、土方歳三の隊(井上源三郎、松原忠司の隊とも。)に所属し、屋外の守備を担当した。後に15両の褒賞金を得ている。
同年12月の編成では、松原忠司の七番大炮組に所属し、慶応2年の三条制札事件では原田左之助らと共に、土佐の藤崎吉五郎を斬り、15両の恩賞金を得た。
慶応3年6月10日の幕府召抱えでは、平同士として名を連ねるものの、同年の12月迄に離隊した。
池田屋、ならびに三条制札事件共に褒賞金15両の活躍あり。
[幕府召抱え名簿]で平同志の伊木一郎であろうか?

★[第一次行軍録]
七番隊隊士






【井汲 恭平 (いくみきょうへい)】

生没年不詳

平同士。






【池田 小三郎 (いけだこさぶろう)】

天保13年〜慶応4年1月3日
(1842年〜1868年)

江戸出身。撃剣師範。伍長。
元治元年(1864年)10月、局長近藤勇による隊士募集に応じて新選組に入隊。剣術教授心得。
三条制札事件では金千疋の褒賞金を受けた。
伊東甲子太郎らの分離後の組織改選時には剣術指南方として伍長になる(池田小太郎となっている)
慶応4年、鳥羽伏見の戦いに参戦して伏見もしくは淀で戦死とされたが、甲州勝沼の戦いにも参戦。しかし、この戦いでも戦死とされていたり、幾つかの戦死説がある。

★[第一次行軍録]
五番隊隊士
★[編成表]
慶応三年十二月/伍長
★[幕府召抱え名簿]
平同志






【池田 七三郎 (いけだしちさぶろう)】







嘉永2年11月13日〜昭和13年1月16日
(1849年12月27日〜1938年1月16日)

新選組最後の生き残り隊士の稗田利八の新選組在籍中名。
上総国山辺郡田間村の商人の三男。
1865年に江戸に出て、天野精一郎の道場で剣術を学んだ後、旗本の家臣となる。
1867年に新選組に入隊し、1868年の鳥羽・伏見の戦いや甲陽鎮撫隊に参戦。その後会津へ出陣し、八月の母成峠の戦いで敗れた後、斎藤一らと会津に残留。耳から鼻に抜ける銃弾を受け、戦線から下がらざるを得なくなり、高崎藩兵士に降伏。
東京護送後、1年の謹慎を経て放免となる。
その後郵便局に務めた。
1929年、子母沢寛の取材を受け、回顧録「新選組聞書」を口述。
1938年1月16日、90歳で死去。
墓は東京都港区麻布台の真浄寺。

★[中島登名簿]
平同志
★[島田魁文書]
(京都より会津)/平同志
★[会津三代在陣者名簿]隊長附人数






【池田 庄司 (いけだしょうじ)】

生没年不詳

平同士。






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