新選組隊士人名事典


【と】 13件

【東條 岳之助 (とうじょうたけのすけ)】

生没年不詳

甲陽鎮撫隊の隊士とされる人物。一説には会津藩士とも。

甲陽鎮撫隊の先遣隊と称し、慶応4年(1868)3月5日に甲州都留郡谷村の代官出張所に陣取り、斎藤一諾斎や立川主税らと共に募兵や兵糧の調達にあたったとされる。






【藤堂 平助 (とうどうへいすけ)】

藤堂 平助






【土岐 善次郎 (ときぜんじろう)】

佐久間銀太郎が戊辰戦争の際に使用した変名。






【時松 吉次郎 (ときまつきちじろう)】

谷川辰蔵が養子にいったのか、新選組加入以前に一時使用した名前。






【常盤 常次郎 (ときわつねじろう)】

生没年不詳

陸奥国会津藩士。
会津藩からの派遣隊士。
元冶元年(1864)6月、京都にて入隊。

会津藩高田郡奉行・常盤与兵衛の次男。名は盛郭。
大砲組当座御雇で、会津藩主・松平容保が京都守護職拝命後、その供をして上洛。
元冶元年(1864)6月5日の池田屋事件以降に、会津藩から派遣されたうちの1人。
同年6月6月9日の明保野亭事件に出動。
同年7月19日の禁門の変では、残存勢力が天王山へ追い詰められた時、常盤は他の会津藩士や近藤勇らよりも早く登山し、一番乗りで長州藩勢と戦い打ち破っている。
その勲功として、下等だが銀子20枚を受け取る。
会津藩に復帰の為、同年11月以前に離隊。
その後、慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いで敗れた常盤は、秋月登之助が隊長・土方歳三が副長の旧幕府軍に所属。
下総・国府台から会津と転戦。






【殿内 義雄 (とのうちよしお)】

天保元年〜文久3年3月25日
(1830年〜1863年4月29日)

結城藩士の子、あるいは殿内村(現在の千葉県山武郡)の豪農・土屋忠右衛門の子として生まれた。江戸の昌平坂学問所(現在の東京大学に相当。)で学問を究めた。
文久3年(1863年)、浪士組に参加。鵜殿鳩翁から、家里次郎と共に浪士組内の壬生村での残留者の取りまとめの責任者の役目を任される。(殿内と家里は、募集する側の責任者だったので、名簿に記載されていない。)。
最初の壬生浪士の筆頭格であったが、近藤勇に激しく憎まれたせいか殿内自身の資料・伝承に乏しい。
近藤、芹沢、根岸らは、既にそれぞれ派閥を形成していたが、殿内と家里は、幕府の信用で筆頭格になったので、派閥らしいものはなく、旧知の根岸らと近かったとされている。
派閥を形成するために旅に出ようとする際、近藤らに酒を飲まされ、京都四条大橋にて闇討ちに遭い命を落とした(近藤勇と沖田総司に襲われ、沖田に殺害されたという。)。殿内は、旅支度の姿で刀は袋にしまった状態であったという。
また、殿内を失った家里は、出奔後、大坂(現在の大阪市)で隊士を募っているところを芹沢らに捕らえられ粛清された。根岸は、殿内死後ほどなく、伊勢参りに行くという理由で壬生村を立ち去る。(のち根岸は新徴組を経て七十数歳の天寿を全う。)






【鳥羽 順平 (とばじゅんぺい)】

鳥羽多喜松の別名と考えられる。






【鳥羽 多喜松 (とばたきまつ)】

箱館新選組二分隊。
旧唐津藩士。
本名は印具馬作。
後に帆足徹之助。






【富川 十郎 (とみかわじゅうろう)】

天保15年〜慶応3年6月14日
(1844年〜1867年7月15日)

諱は政行、良利、政之。姓は藤原。
出身は甲斐国、もしくは常陸国とも。
慶応元年(1865年)の江戸での隊士募集に応募して新選組に入隊。
慶応3年(1867年)3月に伊東甲子太郎らが脱退して御陵衛士を結成した際には、そのまま組に残留した(伊東から密命を受けていたともされる)。
同年6月、新選組の幕臣取立てに反発し、御陵衛士に合流しようとするが新選組との規定により叶わなかった。その後、京都守護職邸で近藤勇らと脱隊の話し合いをするがこれも叶わず、茨木司、佐野七五三之助、中村五郎と共に同所で自刃した。
墓所は初め光縁寺、後に戒光寺。






【富嶋 寛 (とみじまひろし)】

安富才介が五兵衛新田駐屯時に使用した変名。






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