新選組隊士人名事典


【な】 34件

【内藤 隼人 (ないとうはやと)】

土方歳三の名のひとつ。
寄合席格ということから使った名。
会津戦争時、内藤隼太、内藤隼之助と記したものもある。






【中井 三弥 (なかいみつや)】

生没年不詳

慶応3年の幕臣取立てに反対を主張し、新選組追放となったうちの一人。

★[幕府召抱え名簿]
平同志






【中川 小十郎 (なかがわこじゅうろう)】

生没年不詳

箱館新選組四分隊。






【中川 小次郎 (なかがわこじろう)】

(1848〜?)

武蔵国江戸出身。
第四分隊所属隊士。
箱館戦争期に入隊。
医師・吉田宇桂の子で四ツ谷村の生まれ。

箱館では番兵取り締まりをやっていたと福山藩の記録にあり、明治2年(1869)5月、弁天台場で降伏。





【中沢 務 (なかざわつとむ)】

生没年不詳

箱館新選組一分隊。
唐津藩士。
名を格太とも称した。






【中島 登 (なかじまのぼり)】





天保9年2月2日〜明治20年4月2日
(1838年2月25日〜1887年4月2日)

武州多摩郡小田野の農家・中島亦吉の長男として生誕。幼名は峯吉。
安政3年、19歳で天然理心流に入門。
元治元年(1864年)新選組に入隊。近藤の命で武州・甲州・相模の地理調査などを秘密裏に行っていたと言われる。
慶応3年、新選組伍長に就任。
慶応4年4月3日、流山で近藤勇が新政府軍に投降した際には、同行役の薩摩藩士・有馬藤太を追尾したが、監視は厳しく帰った。
土方歳三ら数名の新選組隊士らと共に、大鳥圭介ら旧幕府軍と合流して宇都宮の戦い・日光口の戦い・会津戦争に転戦。仙台で更に榎本武揚ら旧幕府海軍と合流して蝦夷地へ渡る。
箱館戦争では弁天台場第2分隊嚮導役。明治2年5月15日、降伏。
弁天台場で謹慎。
後、青森に送検、同6月9日に弘前藩、7月21日青森へ戻り、3ヶ月謹慎。10月24日弁天台場に戻り、約5ヶ月謹慎。
明治3年(1870年)5月上旬、越後藩を経て駿河藩お預けになり、中旬には赦免。多摩に帰還。
駿河藩の開墾に尽力。田地を人々に譲渡。
浜松にて元彰義隊隊士・大島清慎と再会。浜松に定住。
明治20年4月2日、浜松にて死亡。享年50。墓は浜松市山下町天林寺。戒名は隆慶院孝庵義忠居士。






【中西 小六 (なかにししょうろく)】

生没年不詳

元治元年10月加盟。






【中西 昇 (なかにしのぼる)】

生没年不詳

新選組伍長。
のちに御陵衛士。
多くの書物に上州出身と書かれているが、島田魁の「英名録」には武州川越出身と書かれている。出生年は分かっておらず、北辰一刀流伊東精一、伊東甲子太郎(鈴木大蔵)の弟子であった。
剣の実力は師範代を務めるまで至った。
元治元年10月、近藤勇や藤堂平助の勧誘され上洛、伊東らと共に新選組に加盟した。その際の第二次組織編成では、斎藤一の四番組に属し、伍長となっている。
慶応3年3月の御陵衛士の拝命により、新選組から分離。高台寺の月真院に移る。
中西の行動は不思議な点が多い。
新選組の後の話に、新選組在籍時、篠崎慎八郎と称していた佐原太郎が中西の手によって、殺害されたと同胞の阿部十郎が語っている。しかし、同胞の篠原泰之進は久留米新激隊の田口次郎なるものが殺害したと書き残している。






【中村 吉六 (なかむらきちろく)】

生没年不詳

★[島田魁文書]
(京都より会津)/局長附人数
伏見にて脱走とある。






【中村 久馬 (なかむらきゅうま)】

生没年不詳

平隊士。
文久3年(1863)6月〜7月に、京坂にて入隊。
元冶元年(1864)6月の池田屋事件以前に消息を絶ち、離局したらしい。






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