新選組隊士人名事典


【の】 7件

【野口 健司 (のぐちけんじ)】

天保14年〜文久3年12月27日
(1843年〜1864年2月4日)

水戸藩出身。副長助勤。
江戸の百合元昇三道場で神道無念流を学び目録を得る(免許皆伝とも)。同門には新選組幹部となる永倉新八がいた。
文久3年(1863年)2月、浪士組の参加して上洛。江戸帰還に反対して京都に残留して、同年3月の壬生浪士組結成に参画する。
野口は芹沢と行動を共にして、芹沢が引き起こした乱行である大坂力士の乱闘、大和屋焼き打ちに関与したと見なされている。
八月十八日の政変の際には野口も出動。
同年9月、芹沢と平山は試衛館派(近藤派)によって暗殺され、平間は逃亡した。暗殺事件の夜、野口は角屋に残って難を逃れている。これ以前に新見も切腹させられており、水戸派は壊滅した。水戸派のうち野口だけは粛清されず、その後も幹部の一人として隊に残留している。
芹沢粛清事件後も逃亡の形跡がないことから、その真相を知らなかったか、野口自身は近藤勇による新体制に異存がなかったものと捉えられている。
剣術の同門に試衛館派の永倉がいたことも、この時には粛清されなかった理由と推察される。
だが、同年12月27日、野口は突然切腹を命じられ、安藤早太郎の介錯で切腹した。切腹の原因については明らかではない。
八木源之丞の後年の証言では「ささいなことで詰め腹を切らされたのではないか」とされている。享年21。






【野崎 太郎 (のざきたろう)】

生没年不詳

武蔵国出身。
慶応元年(1865)4月、江戸にて入隊。
土方歳三による江戸での隊士募集に応じるが、上洛名簿に名前が無いので、加盟直後に断念したと思われる。






【野辺 實 (のべかん)】

野辺小作の改名。






【野辺 小作 (のべしょうさく)】

(1849〜1910)

肥前国唐津藩士(本国は本州)。
第4分隊所属隊士。
別称は野辺民雄、変名は鬼々大作、改名は野辺實。

明治元年(1868)9月18日頃、仙台にて入隊。
小笠原長行の供をして江戸を脱走する。
箱館戦争に従軍。
明治43年(1910)9月24日、東京にて死去。
享年62歳。






【野辺 民雄 (のべたみお)】

野辺小作の別称。






【野邑 遊喜 (のむらゆうき)】

生没年不詳

箱館新選組一分隊。
島田魁は遊吉と記している。






【野村 利三郎 (のむらりさぶろう)】



弘化元年〜明治2年3月25日
(1844年〜1869年5月6日)

諱は源義時。美濃国旗本・加藤平内領出身。
入隊時期は不明だが、慶応4年(1868)3月、五兵衛新田に屯集した新選組に野村の名前がある。
翌4月、下総流山で局長・近藤勇が新政府軍へ出頭する際、付き添って共に新政府軍に捕縛された。
同月25日に近藤は処刑され、野村も一緒に処刑されるはずだったが、近藤の助命嘆願により、相馬と共に釈放。
釈放後は相馬主計と行動を共にして旧幕府軍陸軍隊隊長・春日左衛門の下に付く。
奥羽越列藩同盟とともに常磐口で官軍と抗戦。
奥羽越列藩同盟壊滅後、仙台へ向かい、榎本武揚艦隊および土方歳三らと合流し、蝦夷地へ渡った。野村は新選組に復帰せず、陸軍隊の一隊を任されていたが、隊長春日の統率姿勢に不満を持ち、命令違反などのトラブルを起こす。
蝦夷共和国成立後は、土方の直属である陸軍奉行添役に就任した。
明治2年3月25日、宮古湾海戦の際、回天に乗船していた野村は、真っ先に甲鉄艦に斬り込み戦死したといわれ、撤退に間に合わずに甲鉄艦上で戦死したため、新政府軍により遺体は海に棄てられたとも水に落ち行方不明とも。享年26。
函館称名寺の新選組供養碑にその名がある。







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