新選組隊士人名事典


【は】 20件

【橋本 皆助 (はしもとかいすけ)】

天保6年〜明治4年4月16日
(1835年〜1871年6月3日)

大和郡山藩出身。
伍長。後、御陵衛士および陸援隊隊士。
旧姓は藤井。変名水野八郎または藤井勇七郎。
脱藩して水戸天狗党の筑波山挙兵に応じ、慶応2年(1866年)に新選組に入隊。仮隊士となる。
三条制札事件の功労によって正式隊士となり、伍長に昇格するが、慶応3年(1867年)には伊東甲子太郎らと同意して新選組を離脱、御陵衛士を結成。
しかし、その5ヶ月後に御陵衛士も脱退し、陸援隊に入隊。
維新後、大和郡山藩への帰藩を許されたが、帰郷後ほどなくして病死。
享年37。
墓所は奈良県大和郡山市の常光寺。墓参りをすると、なぜか腹痛が治るらしい。






【秦 河内 (はたかわち)】

御陵衛士時代に篠原泰之進が名乗った名前。






【畠山 芳次郎 (はたけやまよしじろう)】

生没年不詳

両長召抱人。
畠山芳二郎・畑山芳次郎とも。
慶応4年(1868)江戸にて入隊。
同年3月、五兵衛新田に駐屯。
下総・流山から土方歳三に従い、北関東を転戦。
会津戦争に参戦後、明治元年(1868)10月、仙台で降伏。






【秦 林親 (はたしげちか)】

篠原泰之進の戸籍名






【秦 泰之進 (はたたいのしん)】

篠原泰之進が慶応4年(1868)の戊辰の役にあたり、赤報隊時代から北越転戦時に名乗った名前。






【服部 英太郎 (はっとりえいたろう)】

生没年不詳

武蔵国江戸(幕臣)。
土方付属士官隊所属。
明治元年(1868)9月下旬、仙台領にて入隊。
仙台で土方付属士官隊となり、蝦夷地へ渡航。

上陸間も無い下旬に、新選組の白戸友衛をはじめ、彰義隊の面々と共に歌葉(後志国)鎮撫に派遣されている。
箱館脱走軍の陸軍奉行添役介と記録される。






【服部 武雄 (はっとりたけお)】

天保3年〜慶応3年11月18日
(1832年〜1867年12月13日)

通称は三郎兵衛。
播州赤穂藩出身。
新選組諸士調役兼監察、のち御陵衛士(高台寺党)。
大柄の人物で、新選組隊中1、2を争う剣術、柔術、槍術の達人で隊内でも使い手として名を馳せた。剣術にこだわらなければ沖田総司よりも強いと伝える文献もある。
元治元年10月に伊東甲子太郎らと入隊と思われるが明らかでない。同年の編成で尾形俊太郎の五番組に属す。
慶応元年の春、諸士調役兼監察に任命される。同時に撃剣師範となる。
慶応元年11月近藤勇の長州出張に随行。
慶応2年9月三条大橋制札事件では、目付役として活躍。
慶応3年3月 伊東甲子太郎らと新選組を離脱。御陵衛士に参加。
同年11月18日、油小路事件で落命。享年36。
用意周到な彼は、暗殺された伊東甲子太郎の屍骸を引き取りに行く際、全員武装を主張したが受け入れられなかった。藤堂平助らがあっさり討ち取られ、三木三郎、加納鷲雄、富山弥兵衛、篠原泰之進らが逃げたのに対し、ただ一人武装していた服部は、最期まで孤軍奮闘、獅子奮迅な戦いぶりで新撰組隊士を苦しめたようだ。しかし、刀が折れたところを原田左之助によって討たれたといわれ、その身体には20余りの傷を負い、両手に刀を握り締め大の字になって斃れていたと伝わる。






【濱口 鬼一 (はまぐちきいち)】

生没年不詳

浜口飛一とも。
文久3年5月頃に入隊。
同月25日の「幕府提出上書署名者一覧」に名前を連ねる。
同年の八月十八日の政変に参加。
以後、池田屋事変までに脱走したものと見られている。






【浜田 善次 (はまだぜんじ)】

生没年不詳

入隊時期不明。
土方歳三付で、鳥羽伏見の戦いで戦死したと伝わる。






【浜本 三郎 (はまもとさぶろう)】

(1843〜?)

伊勢国出身。
平隊士。
元冶元年(1864)10月、江戸にて入隊。
同年12月以前に消息を絶ち、離局したらしい。






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