新選組隊士人名事典


【ま】 7件

【前場 喜司馬 (まえばきしま)】



弘化3年7月15日〜大正4年4月2日
(1846〜1915年4月2日)

箱館新選組四分隊嚮導役。小四郎とも。
弘化三年、前場景正の長男として生まれる。
戊辰戦争第5の役函館戦争(五稜郭の戦い)に参戦。
弁天台場にて降伏。
その後、薬王院に送られる。
大正四年、東京において七十歳の生涯を閉じた。






【馬越 三郎 (まごしさぶろう)】

嘉永元年頃?〜明治20年頃
(1848年頃?〜1887年頃?)

阿波国徳島藩出身。
美男五人衆の一人。
文久3年(1863年)の入隊とされる。
野口健司の葬儀の際に、武田観柳斎とともに頼越人を務める。
子母澤寛著『新選組物語』には、男色家の武田観柳斎に惚れられて迷惑し、副長土方歳三に訴えて脱退させてもらったとの話が残るが、子母澤の創作だと言う声もある。同書によれば、隊務が無い時はおしゃれな恰好をして出かけ、笑うと両頬にえくぼができ、笑う時も怒る時もまるで若い女のようだったらしい。
明治20年頃に壬生を訪れた時も若々しく、27,8歳にしか見えなかったと言う。






【松崎 静馬 (まつざきしずま)】

生没年不詳

松崎野馬と記された文献もある。
文久3年6月以降の入隊で、同年の八月十八日の政変に参加。
以後、文献には現れず、池田屋事件の時点では確実に在隊していない。
永倉新八が建てた板橋の石碑の中で「変死・病死」に列記されている為、在隊中に何らかの理由で死亡したと考えられる。





【松原 忠司 (まつばらちゅうじ)】

天保五年〜慶応元年9月1日
(1835年〜1865年10月20日)

四番隊組長。
播州小野藩士の子として生まれ、安政年間に脱藩。
文久3年5月には新撰組の前身である壬生浪士組に入隊。
文久3年、八月十八日の政変では坊主頭に白鉢巻、脇には大薙刀を備え弁慶さながらの格好で仙洞御所前および禁裏御所南門の警備にあたり、「今弁慶」の異名をとる。
元治元年の池田屋事件では土方隊に属し、当夜の戦功により報奨金15両を賜る。
慶応元年4月の組織再編で四番隊組長・柔術師範。
慶応元年、死去。その死については病死と心中という二つの説がある(新選組の記録には「病死」とある)。何らかの理由で切腹したが未遂に終わり、その後平隊士に降格されたという点は多くの話で共通。しかし心中説は子母沢寛(あるいは八木為三郎)が「新選組物語」にて「壬生心中」として創作したのではないかといわれる。
屯所の近くに愛人(自分が殺害した浪人の妻女)を囲っており、その件を副長の土方歳三に厳しく咎められた。そこで、幹部としての責任を感じ自ら切腹、失敗に終わり(篠原泰之進がいち早く発見)疵を負った。一端は直り、平隊士に降格。自暴自棄に陥ったようだ。それからしばらくして、疵が悪化し、それがもとで死に至ったというもの。






【松本 捨助 (まつもとすてすけ)】



弘化2年4月24日〜大正7年4月6日
(1845年5月29日〜1918年4月6日)

新選組の八番組隊士。
土方歳三の縁戚。
武蔵国多摩郡本宿村(現・東京都府中市本宿)の名主の松本友八の長男。
近藤道場で天然理心流を学び、1863年1月に結成された浪士組にも参加を望むが、家族の反対があり、断念。その後上洛し、文久3年(1863年)11月、壬生浪士組から名を改めた新選組に入隊を懇願するも断られている。入隊を断られたのは長男であったためと言われる。その後も入隊を諦めず親を説得し、結局、新選組に入隊したのは慶応3年(1867年)になってからである。鳥羽伏見の戦いや甲州戦争にも参戦。会津戦争時に仙台で離隊し、郷里に帰る。
維新後、愛知県で米屋を営み、晩年は八王子で過ごした。
明治22年(1889年)、土方歳三の甥・佐藤俊宣が不敬罪を免じられて釈放された時に、捨助も迎えに行っている。墓は、東京都府中市の本宿共同墓地にある。






【松山 幾之助 (まつやまいくのすけ)】

生年不詳〜-元治元年7月6日
(?〜1864年8月7日)

新選組隊士。
1864年7月6日、松山は、新選組の密偵として西国の動きを探るため、岡山奥市谷に潜入していたが、岡元太郎ら7名の浪士に斬殺され、一本松の御成橋に梟首される。襲撃者のうち岡元ら4名は後に自主のうえ赦免された。
この事は新選組隊士の残した資料には残っていない。 死亡日付は、異説として、4月6日、7月7日の説がある。






【馬詰 柳太郎 (まづめりゅうたろう)】

弘化元年〜没年不詳
(1844年〜?)

中国地方出身と言われる新選組隊士。
美男五人衆の一人。
文久3年(1863年)9月以前に、父・馬詰新太郎と共に新選組に入隊。
同年9月18日(16日とも)に新選組隊士達が島原へ遊興しに行った際には、屯所で留守番をしていた。芹沢鴨暗殺の日だった。
美男で女好きだったが気が弱く、仲間の隊士達と飲みに行くこともできず、壬生村郷士南部亀二郎の子守女(色黒・短身・ちぢれ毛の醜女)と仲が良かった。女の腹がふくれはじめたため、他の隊士達が歌を作ってからかったと言う。
南部の子守のお腹がふくれた 胤(たね)は誰だろ
馬詰のせがれに 聞いてみろ
馬詰親子はいづらくなって、ある夜新選組を脱走してしまった。
父・新太郎は45,6歳で、号を柳元斎と称して書が上手い一方、刀の差し方などまるで知らず、隊士達によく使いっぱしりをさせられていたらしい。







[戻る]



©フォレストページ