新選組隊士人名事典


【み】 6件

【三浦 啓之助 (みうらけいのすけ)】



嘉永元年〜明治10年2月26日
(1848年〜1877年2月26日)

幕末期の洋学者・佐久間象山とその妾・お蝶の子で、本名は佐久間恪二郎(さくま かくじろう)。ちなみに「三浦」は義母・順(勝海舟の妹)の姓である。
元治元年(1864年)に父・象山に随身して入洛するも、同年7月11日に父が暗殺されてしまう。この時、父の門弟・山本覚馬に仇討ちを勧められ、新選組へ入隊する。
入隊後は局長・近藤勇の側近となり、他の平隊士よりも丁重に扱われたが、次第に父譲りの傲慢さが露わになり、芦谷昇たちと共に粗暴を働くようになる(その為、土方歳三や沖田総司からは終始目を付けられていた)。
そして、慶応2〜3年頃、芦谷と共に新選組を脱走する(但し、それ以前に土方が松代藩への帰藩を促したことがあるが、三浦自身はこれを拒否している)。
明治維新後は恪(いそし)と名を改め、「象山の息子」であることを利用して司法省に出仕するも、警察と喧嘩を起こし免職となる。その後は松山県裁判所判事として松山に赴任したが、明治10年(1877年)2月26日、食中毒で頓死した。






【三浦 堅太郎 (みうらけんたろう)】

生没年不詳

文久3年5月頃に入隊し、同月25日の「幕府提出上書署名者一覧」に名前があるが同年7月の「在隊者リスト」には名前がないことからそれ以前の離隊したものと考えられる。






【三品 仲治 (みしなちゅうじ)】

生没年不詳

入隊は文久3年秋以降。
元治元年6月5日の池田屋事件では、土方歳三の隊に所属し、屋内にて奮戦した。後に褒賞金として17両を得ている。
同年12月の編成では、松原忠司の七番大炮組に所属しているが、それ以後行方不明。
慶応元年に脱走したという説がある。
異説の、三品一郎と同一人物ならば、明治以降も生存している。もしくは戦死。






【宮川 数馬 (みやがわかずま)】

天保12年?〜慶応4年1月3日
(1841年?〜1868年1月27日)

江州膳所藩出身。
1864年10月の加盟で、入京時の名を博と記す。
その後の編成では、武田観柳斎の六番組に所属する。この時28歳位というが確証がない。
1867年6月10日の幕府召抱えでは、平隊士として名を連ねる。
翌年1月3日の鳥羽・伏見の戦いで戦死。
御香宮神社の名簿にも名がある。






【宮川 信吉 (みやがわのぶきち)】

天保14年(1843年)〜慶応3年12月7日
(1843年〜1868年1月1日)

武蔵国多摩郡出身。
天然理心流。
局長近藤勇の従弟。諱は頼温(よりあつ)。名の読みはのぶよしもしくはしんきちとする資料もある。
武州多摩郡大沢村・宮川弥五郎の次男として生まれる。母リノは近藤勇の叔母(近藤の父・宮川久次郎の妹)。
天然理心流道場試衛館に入門して剣を学び、書も習う。
慶応元年(1865年)4月、土方歳三・伊東甲子太郎・斉藤一・藤堂平助が江戸にて隊士を募集した際、新選組に入隊。このとき上洛に際して土方の秘書を務めた。
慶応3年(1867年)6月の新選組幕府召抱えでは平同士として記載され、油小路事件において大石鍬次郎他2名と共に伊東殺害に関わったとされる(『史談会速記録』阿部十郎談話)が、12月の天満屋事件により戦死と伝わる。享年25。
墓碑は京都・壬生光縁寺と東京・三鷹竜源寺にあり、光縁寺の過去帳によれば、死亡日は天満屋事件の翌日12月8日とされている。竜源寺の墓碑によると死亡日は事件当日、戒名は良忠院義栄道輝居士とある。なお、横倉甚五郎も「京都にて討死」と記し、板橋市の新選組墳墓にも名が残されている。






【三好 胖 (みよしゆたか)】



嘉永5年〜明治元年10月24日
(1852年〜1868年12月7日)

肥前国唐津藩主・小笠原長行の弟で、箱館新選組隊士。差図役。
本名、小笠原胖之助。裕(ゆたか)とも。
戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟が崩壊し、旧幕府軍は仙台に到着した榎本武揚艦隊と合流。兄・小笠原長行は榎本に同意して蝦夷地渡航を決意したため、胖も土方歳三率いる新選組に入隊して同行した。
箱館戦争初期の戦い(峠下の戦い)にて戦死。
享年17。







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