新選組隊士人名事典


【も】 3件

【毛内 有之助 (もうないありのすけ)】

天保6年2月28日〜慶応3年11月18日
(1835年3月26日〜1867年12月13日)

新選組文学師範、監察、諸士調役。後に御陵衛士。
津軽藩用人・毛内裕胤の次男。本名は良胤。通称毛内監物(もうないけんもつ)。文武両道説と、文人説あり。
津軽藩脱藩後に移り住んだ江戸では学才を活かし、家庭教師の職をしていた。
元治元年10月に、江戸で新撰組に加入(伊東甲子太郎らと同時加入。)後に上洛。
毛内は文学師範、諸士調役、監察など、役付きの隊士として厚遇されている。
伊東や、三木三郎(鈴木三樹三郎)、服部武雄、藤堂平助、篠原泰之進、阿部十郎、富山弥兵衛らと御陵衛士を拝命し、分派活動を行う。
(茨木司、佐野七五三之助、富川十郎、中村五郎らも同時に合流を望んだが、伊東が残留させた。結果は最悪の事態に。)
薩摩藩が多額の費用を彼らに充てた。しかし、近藤らの襲撃が怖くて、眠りも浅い状態で日々を送っていた。
慶応3年11月18日伊東が暗殺され、藤堂、服部、富山らと現場の油小路に遺体を引き取りにいき、かつての同僚の新選組に包囲され、斬殺される。富山は生還。






【元井 和一郎 (もといわいちろう)】

天保14年〜没年不明
(1843〜?)

越後国刈羽郡粕崎出身で、極短期間のみ新選組に所属。
後、衝鉾隊隊士。
兵糧方。本名熊七郎。
名主元井森右衛門の子として生まれたが、兄・鯛蔵と仲が悪く、安政5年(1858年)5月に家出して、上野伊勢崎の伯父・栄吉のもとに住み着く。文久元年(1861年)、今度は縁戚・乕吉のもとに移り、文久3年(1863年)には江戸神谷町の商家越後屋万吉のもとを訪ねた。
元治元年(1864年)10月、新選組局長近藤勇による隊士募集に応じて一時新選組へ入隊するが、京都へ向かう前に脱退。越後屋の紹介で神奈川奉行所管轄の見廻方に就任し、和一郎と名乗る。
戊辰戦争が勃発すると、徳川幕府が崩壊して給料が得られなくなってしまったため、帰郷を決意。途中、佐野藩で古屋佐久左衛門率いる一隊(後、衝鉾隊)に遭遇し、なかば強制的に所属させられる。
会津に着くと、正式に兵糧方を任され、各地に従軍。仙台で榎本武揚艦隊と合流して蝦夷地へ渡った。この時、兵糧方頭取に昇格。
箱館戦争降伏後、静岡藩預かりとなり、明治3年(1870年)3月、赦免。以後の消息は不明となっている。





【森 常吉 (もりつねきち)】



文政9年6月12日〜明治2年11月13日
(1826年7月16日〜1869年12月15日)

桑名藩士。
後、箱館新選組隊士。
頭取改役。弥一左衛門とも。諱は陳明(つらあき)。
戊辰戦争時、上野戦争に参戦した後、同藩士関川代次郎らと共に徹底抗戦派の藩主・松平定敬を護衛して蝦夷地へ渡航。新選組に入隊し、箱館戦争に参戦した。
箱館戦争の敗北が決まると、桑名藩は新政府軍の追及を受けた。森は桑名藩の全責任を引き受けるため、明治2年に釈放された後、自害。
享年44。墓所は三重県桑名市の十念寺にある。
辞世の歌は、
『なかなかに おしき命に ありなから 君のためには なにいとふべき』
『うれしさよ つくす心の あらわれて 君にかわれる 死出の旅立』

※君=藩主・松平定敬のこと







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