新選組隊士人名事典


【や】 7件

【安富 才助 (やすとみさいすけ)】

天保10年〜没年不詳
(1839〜?)

備中足守藩出身の新選組隊士。大坪流馬術の遣い手で新選組の馬術師範も務めた。後、副長。陸軍奉行添役。諱は正儀。
元治元年(1864年)10月頃に新選組に入隊。会計方後馬術師範となる。土方歳三の信頼は高かったもよう。
甲州勝沼の戦い以後は土方と別行動を取ったが会津で合流。蝦夷地へ渡り、陸軍奉行並に就任した土方歳三の直属の部下となった。箱館戦争で土方が戦死し、それを看取った安富は、土方家宛の手紙を書いて立川主税に託した。旧幕府軍は新政府軍に降伏。
明治3年(1870年)に放免され、元御陵衛士の阿部十郎に殺されたと伝わっているが、定かではない。
なお、安富が立川に託した手紙は土方家に現存し、その手紙の中で、安富は土方への追悼句を書き残している。

『早き瀬に 力足らぬか 下り鮎』

(ただし、これを土方歳三自身の辞世の句とする説もある)


【柳田 三二郎 (やなぎださんじろう)】

生没年不詳

新選組柔術師範。
阿波で生まれる。
文久3年(1863年)6月以降に新撰組に入隊。八月十八日の政変に参加したが池田屋事件には不参加。
慶応元年(1865年)7月までの在隊が確認されている。このときに松原忠司とともに柔術師範となる。
柳田佐太郎と同一人物の可能性もある。






【山崎 烝 (やまざきすすむ)】

山崎 烝






【山田 春隆 (やまだはるたか)】

生没年不詳

文久3年5月頃に入隊。
同月25日の「幕府提出上書署名者一覧」には名前があるものの、同年7月の「在隊者リスト」には名前がない。






【山南 敬助 (やまなみけいすけ)】

山南 敬助






【山野 八十八 (やまのやそはち)】

天保12年〜明治43年
(1841年〜1910年)

新選組平隊士で美男五人衆の一人。
加賀で生まれる。
文久3年(1863年)に島田魁、尾形俊太郎とともに入隊。
池田屋事件には屯所を守っていたため不参加。
楠小十郎、佐々木愛次郎、馬越三郎、馬詰柳太郎らとともに美男五人衆の一人だった。
定かではないが沖田総司率いる新選組一番隊に所属していたという記述が残っている。
新選組が鳥羽・伏見の戦いに敗れると江戸に帰還し、その後も在隊したといわれている。
新選組が箱館で降伏する前に離隊し、維新後は京都の菊浜小学校の用務員を勤め、1896年に退職。
1908年、戊辰戦争前に別れた彼の恋人と娘に再会し、共に暮らして生涯を送った。






【山脇 正勝 (やまわきまさかつ)】

嘉永2年〜明治38年5月6日
(1849年〜1905年5月6日)

桑名藩士。
後、箱館新選組隊士。
維新後、三菱社員。
翻訳、上海支社社長。
後、長崎造船所初代所長。
旧名隼太郎(はやたろう)。変名、大河内太郎。
桑名藩士・山脇十左衛門(正軌)の子に生まれ、藩主・松平定敬の小姓となる。
慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発、鳥羽伏見の戦いに敗走し、江戸から父・十左衛門に同行して粕崎に到る。
徹底抗戦派の藩主・松平定敬の命により、同藩士・高木貞作と共に恭順派家老・吉村権左衛門らの粛清を決行した後、定敬を追って蝦夷地へ渡った。
箱館に着くと、高木らと共に土方歳三配下の新選組に入隊。箱館戦争に参戦する。
明治2年(1869年)5月15日、弁天台場にて新政府軍に降伏。
明治5年(1872年)に釈放後、家老粛清の追及を逃れるためアメリカに留学し、帰国後は三菱に入社。
その後、長崎造船所所長を13年間務めて引退。
子孫に文化研究家バーバラ寺岡。







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