新選組隊士人名事典


【よ】 4件

【横倉 甚五郎 (よこくらじんごろう)】



天保5年〜明治3年8月15日
(1834年〜1870年9月10日)

武州多摩郡八王子出身。
天然理心流。
元治元年(1865年)、局長近藤勇による隊士募集に応じて新選組に入隊。
慶応3年(1867年)11月の油小路の変では大石鍬次郎らと共に出動。
慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が勃発すると、鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、会津戦争を経て仙台で榎本武揚艦隊と合流し、蝦夷地へ渡航した。
明治2年(1869年)5月15日に弁天台場が降伏し、横倉は同所にて謹慎を言い渡されていたが、元京都見廻組今井信郎などと共に坂本龍馬、伊東甲子太郎暗殺の嫌疑をかけられ、同年11月9日、東京の糾問所に送検されて取り調べを受けた。
明治3年8月15日、獄死。享年37。
弁天台場降伏時に詠まれた辞世の句が残る。
『義のために つくせしことも 水の泡 打ちよす波に 消えて流るゝ』






【吉田 俊太郎 (よしだしゅんたろう)】



嘉永2年〜没年不詳
(1849年〜?)

丹波国篠山出身。
慶応3年(1867年)、新選組に入隊。局長近藤勇の側近を務める。
戊辰戦争が起こり、近藤勇が新政府軍へ出頭すると、山口二郎(斎藤一)らと共に会津戦争に参戦し、如来堂の戦いで離散。
久米部正親らと共に敗走を続け、明治元年(1868年)10月、銚子で新政府軍に降伏した。






【吉村 貫一郎 (よしむらかんいちろう)】

天保11年〜慶応4年1月3日
(1840年〜1868年1月27日)

南部盛岡藩出身。
北辰一刀流、新当流。
本名は嘉村権太郎か。
下級武士の次男として生誕。
学問、剣術に打ち込み盛岡藩内では新当流の門を叩き、文久3年(1863年)に江戸行きが叶い、北辰一刀流の玄武館に入門。
慶応元年(1865年)、貧しい吉村は家族を憂い、脱藩。
文武の才を買われ、諸士取扱役兼監察・撃剣師範に抜擢。
慶応3年(1867年)、幕臣と取り立て時に見廻組並の格式を賜り田舎の家族に十分な仕送りができると感激して泣いたという。
天満屋事件で三浦休太郎の護衛の任についたりした。
慶応4年(1868年)正月、鳥羽・伏見の戦いに参戦したが、戦死したのか、脱走したのか、以後の消息は途絶える。子母澤寛によれば、新選組が大阪を離れている事を知った吉村は路頭に迷い盛岡藩邸に帰藩を願うが、差配役の大野次郎右衛門に、武士にあるまじき行為と咎められ切腹を申し付けられ、盛岡藩邸の中で切腹して果てた。切腹した部屋には、二分金十枚と紙切れが置いてあり、紙切れには家族への送金を願う文が記してあった、という。
但し、大野次郎右衛門なる人物は架空の人物であることがわかっており、吉村の最期は子母澤寛の創作である可能性が高い。
子孫の嘉村家の過去帳には、明治3年1月15日没とあるという。






【嘉村 権太郎 (よしむらごんたろう)】

吉村貫一郎の本名。







[戻る]



©フォレストページ