新選組隊士人名事典


【き】 21件

【鬼々 大作 (ききだいさく)】

野辺小作が戊辰戦争に際して、使用した変名。






【菊池 央 (きくちたのむ)】



弘化4年〜慶応4年閏4月25日
(1847年〜1868年6月15日)

陸奥国弘前藩出身。
名は英、央五郎、央(おう)とも。
弘前藩士の三男として生まれる。
慶応3年(1867年)に新選組に入隊し、戊辰戦争では鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いに敗退後、流山を経て会津へ向かう。
白河口の戦いでは、新政府軍大将を討つ手柄をあげたが、同戦いにて戦死。
享年22。
板橋の墳墓に名がある。

★[島田魁文書]
(京都より会津)/局長附人数






【岸金 五郎 (きしかねごろう)】

生没年不詳

武蔵国江戸出身。
会計方所属隊士。

明治元年(1868)9月下旬、仙台にて入隊。

伝習第一大隊に所属して、江戸を脱出。
川添誠之丞らと共に土方付属士官隊として新選組に加入。

その後、箱館脱走軍会計奉行配下の調役並勤方へ転出する。






【岸島 芳太郎 (きしじまよしたろう)】

生没年不詳

会計方。
丹波亀山藩浪士。
島田魁によると、丹波宮津となっている。
慶応3年6月10日の幕府召抱えでは、調役・見廻組並として、大石鍬次郎や近藤周平などと同等である。
「金銀出入帳」の慶応3年11月17日(近藤が藤森神社付近で狙撃される前日)「伏見御用として原田、岸島渡し、25両」とある。
また慶応4年2月16日「岸島芳太郎脇差代金拾両也」の記録もあり。
慶応3年の幕府召抱えでは見廻組並として 近藤周平や大石らと同等の位置にあった。
上越戦争(甲州勝沼の戦い)で負傷。江戸で新選組を離脱後、原田と共に上野彰義隊に参加した。
後年 原田の最後を妻女のまささんに伝えたのは彼だという。

★[編成表]
文久三年三月/勘定役並小荷駄役
慶応元年六月/勘定方
慶応三年六月/諸士調役兼監察
慶応三年十二月/会計方
慶応四年一月/会計方
★[第一次行軍録]
八番隊
★[幕府召抱え名簿]
調役見廻り組並
★[島田魁文書]
(京都より会津)/伍長






【岸田 兼吉 (きしだかねきち)】

生没年不詳

★[会津三代在陣者名簿]
歩兵小頭役






【木内 峯太 (きのうちみねた)】

生没年不詳

島田魁によれば、江州の出身。
名の読みはほうたとも。峯太、岸太とも。
新選組入隊は文久3年7月頃。
元治元年6月5日の池田屋事件では土方歳三の隊(松原忠司、井上源三郎の隊とも。)に所属し、屋外の守備を行っていた。後に15両の褒賞金を得ている。
同年の12月に行われた編成では伊東甲子太郎の二番組に所属している。
慶応3年6月10日の幕府召抱えでは、平同士として名がある。しかし、同年12月迄に離隊。
明治8年には京都で警察官に採用されたという逸話が残っている。

★[第一次行軍録]
二番隊
★[幕府召抱え]
平同志






【木下 巌 (きのしたいわお)】



弘化3年〜慶応4年8月21日
(1846年〜1868年10月6日)

阿波国徳島出身(山城国出身との説もあり)。
伍長。什長。
木下弥三郎と同一人物と考えられる。
元治元年(1864年)、新選組に入隊。
慶応2年(1866年)9月の三条制札事件に出動し、戊辰戦争では鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いを経て、母成峠の戦いで戦死した。享年23。
中島登の<戦友絵姿>によると 勝軍山にて戦死。
板橋の新選組墳墓に刻名がある。

★[幕府召抱え名簿]
平同志
★[編成表]
慶応三年十二月/平同志
★[島田魁文書]
(京都より会津)/伍長
★[中島登名簿]
什長
★[会津三代在陣者名簿]
歩兵差図役什長






【木下 勝蔵 (きのしたかつぞう)】

生没年不詳

箱館新選組三分隊。
山下勝蔵とも名乗る。
弁天台場で降伏。






【木下 弥三郎 (きのしたやさぶろう)】

生没年不詳

元治元年、伊東らと共に上洛名簿に名が見られる。
★[第一次行軍録]
五番隊






【木幡 勝之進 (きはたかつのしん)】

生没年不詳

慶応3年幕府召抱えに不服を唱え、茨木司らと共に京都守護職屋敷に出向き脱隊を願い出る。
結局追放となる。

★[幕府召抱名簿]
仮同志






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