新選組隊士人名事典


【く】 10件

【日下部 四郎 (くさかべしろう)】

生没年不詳

摂津国出身。
平隊士。

元冶元年(1864)冬〜同2年(1865)春、京坂にて入隊。
日下部遠江とは、親子か兄弟の関係と思われる。

慶応2年(1866)12月以前に、消息を絶っている。
離局したと思われる。






【日下部 遠江 (くさかべとうとうみ)】

生没年不詳

攝津(攝州)の出身と島田魁の「英名録」にある。
日下部四郎とは、親子、もしくは兄弟と考えられる。
慶応元年(1865年)7月迄の京坂における隊士募集に応じ、入隊するが、慶応3年(1867年)6月迄に離隊している。






【楠 小十郎 (くすのきこじゅうろう)】

嘉永元年1848年頃?〜元治元年9月26日
(1848年頃〜1864年10月26日)

京都出身。美男五人衆の一人。
新選組初期に、長州藩・桂小五郎の命で間者(スパイ)として入隊したとされる。
若々しく、目がぱっちりした色白下ぶくれの顔で、女のように優しい声をしていたと言われる。自称、京都浪人17歳。
元治元年9月26日濃霧の朝4つ時(10:00頃)、新選組屯所の一つとして使われていた前川邸の門前でぼんやりしていたところを、近藤勇より命を受けた原田左之助に背後から斬りつけられ、そのまま水菜畑に逃れ倒れて死亡した。
その光景を八木家次男・為三郎が目撃していたと言う。
文久3年9月頃のものと思われる名簿に名がある。
永倉の「同志連名記」に京都浪士、平同志、断首とあり、板橋の墳墓にも名がある。



 


【熊沢 元蔵 (くまざわげんぞう)】

生没年不詳

「江戸において暇」とされている。

★[島田魁文書]
(京都より会津)/局長附人数






【粂部 正親 (くめべまさちか)】





天保12年4月17日〜明治43年
(1841年6月6日〜1910年9月25日)

摂津国大阪出身。
伍長。軍目付。
久米部とも。
維新後は猪野忠敬と名乗る。陸軍中尉。
元治元年(1864年)に新選組へ入隊。
慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発し、鳥羽伏見の戦いで負傷するが、甲州勝沼の戦いにも参戦。
会津戦争では軍目付を勤めたが、如来堂で新政府軍の猛襲を受け、山口二郎(斎藤一)ら旧新選組は離散。中島登の戦友絵姿で「如来堂にて討死」とあるも真実は池田七三郎らと虎口を脱し名を猪野に変えて転戦。
久米部は敗走を続けて、同年10月、銚子で降伏した。
東京で謹慎後釈放、新政府陸軍に出仕、中尉まで昇進し、明治12年退任。
明治43年9月25日仙台にて没す。享年70歳。

★[編成表]
慶応元年四月/伍長
慶応三年十二月/伍長
慶応四年一月/伍長(久米部正親)
★[幕府召抱え名簿]
平同志
★[島田魁文書]
(京都より会津)/伍長
★[会津三代在陣者名簿]
軍目
★[中島登名簿]軍目






【栗田 重造 (くりたじゅうぞう)】

生没年不詳

武蔵国江戸出身。
栗田重三・栗田重蔵とも。土方付属士官隊所属

明治元年(1868)9月頃、仙台にて入隊。
元幕府別手組。

慶応4年(1868)4月に江戸を脱走。
伝習第一大隊付属の伝報隊として、各所を転戦する。
会津瓦解にあたり、仙台に逃れ、土方の付属となる。

蝦夷地へ渡航後は、箱館脱走軍の陸軍奉行添役介となり、隊を離れる。






【栗原 仙之助 (くりはらせんのすけ)】



弘化4年〜明治2年5月11日
(1847年〜1869年6月20日)

唐津藩士。
後、新選組隊士。
戊辰戦争で上野戦争に敗戦後、輪王寺宮を護衛して会津へ向かう。
各地を転戦した後、仙台で榎本武揚艦隊らと合流。
蝦夷地渡航に際して、土方歳三配下の新選組に入隊した。
新政府軍による箱館総攻撃で戦死。享年23。
中島登<戦友絵姿>に箱館瓦解の際、弁天台場において戦死とある。
函館称名寺境内に土方、野村利三郎、粕屋十郎、小林幸次郎と名を連ねた供養碑がある。






【黒川 某 (くろかわ)】

生没年不詳

慶応元年(1865)8月か9月初旬に新選組を脱走。






【黒川 佐吉 (くろかわさきち)】

生没年不詳

★[会津三代在陣者名簿]
歩兵小頭役






【桑原 某 (くわはら)】

生没年不詳

慶応4年(1868)3月7日、甲州勝沼戦争敗北の翌日に小野路の小島家を訪問した、新選組隊士を名乗る人物。







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