新選組隊士人名事典


【し】 39件

【斯波 縁之助 (しばえんのすけ)】

生没年不詳

慶応元年 土方、伊東ら江戸下りの際、応募上洛。26歳。

★[幕府召抱え名簿]
平同志






【柴岡 剛造 (しばおかごうぞう)】

生没年不詳

慶応4年宇都宮戦で戦死。

★[島田魁文書]
(京都より会津)/局長附人





【柴岡 万助 (しばおかまんすけ)】

生没年不詳

平同志。
七条油小路において毛内有之助を斬った西岡万助と同一人物の可能性も。
板橋の新選組墳墓に名がある。






【柴田 勝三郎 (しばたかつさぶろう)】

永倉新八の「同志連名記」に出てくる名前。
切腹とあることから、柴田彦三郎の誤記と思われる。






【柴田 小源太 (しばたこげんた)】

(1837〜?)

下総国佐倉出身。

元冶元年(1864)10月、江戸にて入隊。

神奈川奉行所支配下で外国人居留地警備だった篠原泰之進の同僚。
江戸で入隊するも、すぐ離局した。






【柴田 八郎 (しばたはちろう)】

(1847〜1868)

名は謙吉。
別称は芝田一郎(柴田市郎)。
甲陽鎮撫隊に従軍した隊士と伝わる。
一説には、会津藩士とも。
因州兵の木村伊介武則と一騎討ちをし、共に慶応4年(1868)3月6日に戦死したと伝わる。
享年21歳。






【柴田 彦三郎 (しばたひこさぶろう)】

天保11年〜慶応2年6月23日
(1840年〜1866年8月3日)

平隊士。
元治元年(1864年)10月、近藤勇の江戸での隊士募集に応じて上洛。
慶応2年2月に一橋家家臣原口某と名乗り勝手に金策をした。人相書を用意した松本喜次郎や近藤芳助など4人の隊士に追われ出雲の宿で役人に捕まり屯所へ戻され、大勢の隊士の前で切腹した。享年28。
墓は光縁寺にある。






【柴 司 (しばつかさ)】

天保15年2月14日〜元治元年6月12日
(1844〜1864)

会津藩士。
藩よりの派遣隊士。
名は次正。幼名は又四郎。
会津藩士・柴友右衛門次直の四男。

池田屋事件に派遣され出動。事件後、応援隊士に。
元冶元年(1864)6月9日、明保野亭に長州人が潜伏と情報が入り、新選組は武田観柳斎に隊士14名と柴司を含む会津藩士5名を出動。
逃げる武士を見つけ、追いかけると相手が抜刀し、抵抗した為、柴は、この武士を槍で突き倒す。
後、この武士が土佐藩の麻田時次郎と判明。

会津藩では、忠実に任務を遂行したとしてとがめなかったが、土佐藩士らは激昂、明保野亭に集結。
これを知った会津藩主の松平容保は、土佐藩邸に公用人・手代木直右衛門と医師を派遣し、丁重に見舞と陳謝をした。
土佐藩は、明保野亭に集結している藩士らを引き揚げさせ、麻田は元冶元年(1864)6月11日に遺書を残し、自刃。

会津藩では、柴を国許に帰すぐらいで済むと考えていたが、麻田が死んだとなればそうもいかず、任務を忠実にこなした柴に罪を問う訳にもいかず、藩の首脳陣は苦慮した。
察知した柴は、兄の幾馬を通し、藩に切腹する事を申し出、これを聞いた容保は断腸の思いで承諾し、元冶元年(1864)6月12日、兄の介錯で切腹した。享年21歳。

会津藩・土佐藩の両藩の友好が保たれたといわれている。






【芝山 徳三郎 (しばやまとくさぶろう)】

生没年不詳

★[幕府召抱え名簿]
平同志
★[島田魁文書]
(京都より会津)/<柴山徳三郎>の名で見出せる。





【斯波 雄蔵 (しばゆうぞう)】

生没年不詳

斯波良蔵?。
文学師範頭

慶応元年(1865)頃、入隊。
慶応元年(1865)閏5月の編成で、文学師範。
斯波は、海外で修業したいと、近藤・土方に申し出ると、脱隊を許可され、隊を去る。

斯波がその後、本当に海外へ行ったかは、定かではない。

司馬良作と同一人物と思われる。






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