新選組隊士人名事典


【な】 34件

【中村 金吾 (なかむらきんご)】

生没年不詳

備中藩出身。
平隊士、もしくは先陣右翼。
文久3年5月頃に入隊、同月25日の「幕府提出上書署名者一覧」に名前を連ねる。
同年の八月十八日の政変に参加。
元治元年6月5日に起きた池田屋事変では土方歳三隊に所属、参戦し、褒賞金15両を得ている。
同年7月19日の禁門の変に参戦。
12月の行軍録にも旗役として名を連ねるが、慶応3年6月以前に離隊している。






【中村 玄道 (なかむらげんどう)】

生没年不詳

慶応元年4月江戸で加盟、上洛。45歳。
「金銀出入帳」に 慶応3年11月28日20両、12月21日玄道に200両預け、
船中にて200両、品川で100両、正月23日品川で100両との記録あり。

★[幕府召抱え名簿]
平同志
★[島田魁文書]
(京都より会津)/伍長、会計方






【中村 小次郎 (なかむらこじろう)】

生没年不詳

★[幕府召抱え名簿]
平同志、伍長。
江戸で脱走。






【中村 五郎 (なかむらごろう)】

嘉永2年〜慶応3年6月14日
(1849年〜1867年7月15日)

常陸国宇都宮出身の新選組隊士。北辰一刀流。諱は政常。
慶応元年(1865年)4月の土方歳三、伊東甲子太郎、斎藤一らによる隊士募集に応じて、17歳で新選組に入隊。同年5月10日、京都へ入る。
慶応3年6月に新選組の幕臣取り立てが決定すると、尊皇攘夷思想の強かった佐野七五三之助・茨木司・富川十郎らと共に脱退を決意して、伊東らが新選組と分離して結成していた御陵衛士への入隊を希望するが拒否されてしまう。行き場を失った中村らは、会津藩京都守護職邸へ新選組脱退を嘆願するも、上手く事は運ばず、同地にて自刃。享年19。






【中村 重蔵 (なかむらじゅうぞう)】

(1846〜?)

山城国京都出身。
平隊士。
靖共隊・歩兵取締を経て、第四分隊所属隊士。
慶応元年(1865)4月、江戸にて入隊。


有栖川宮の臣・中村喜二郎衛門の次男。
中村重三・中村重郎・中村十郎とも。名は国久。

慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いに参戦し、負傷。
甲州勝沼戦争にも参戦。江戸で離脱し靖共隊へ入隊。
その後、新選組に復帰して箱館戦争に参戦して、降伏。






【中村 清七 (なかむらせいしち)】

生没年不詳

★[会津三代在陣者名簿]
歩兵小頭役
仙台降伏の同志。






【中村 三弥 (なかむらみつや)】

中井三弥の名前を誤記したもの。






【中村 勇次郎 (なかむらゆうじろう)】

生没年不詳

武蔵国江戸(幕臣)出身。
土方付属士官隊付属。
明治元年(1868)9月下旬、仙台領にて入隊。

慶応4年(1868)4月に江戸を脱走し、伝習第一大隊・秋月登之助の隊下となる。
同年8月21日の母成峠の戦いで大島寅雄が負傷した際、小野寺勇之助らと共に大島隊の世話をした。
その後、会津瓦解にあたり仙台に逃れて、土方付属士官隊に入隊。
蝦夷地渡航の後、箱館脱走軍の陸軍奉行添役介に就任。






【中山 重造 (なかやまじゅうぞう)】

生没年不詳

慶応元年4月土方ら江戸下りでの募集に応募加盟。20歳。
後に改名して<重郎>としている。

★[幕府召抱え名簿]
平同志
★[島田魁文書]
(京都より会津)/平同志
(仙台より)/四分隊
★[中島登名簿]
三分隊






【永倉 新八 (ながくらしんぱち)】

永倉 新八






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