新選組隊士人名事典


【う】 20件

【碓井 昇之助 (うすいしょうのすけ)】

生年不詳〜明治元年11月5日?

明治元年11月5日、松前城総攻撃で土方附属として参戦、戦死。
碓氷とする書もあり。






【宇田 兵衛 (うたひょうえ)】

伊東甲子太郎が、慶応3年(1867)春の九州探索で使用した名前。






【内島 定之進 (うちじまじょうのしん)】

生没年不詳

平隊士

箱館戦争期に入隊。
箱館戦争期、明治2年(1869)3月26日に西村五十五郎、岡崎源三とともに病院を退院。

隊士名簿には名前が無いが、新選組隊士と記録にある。






【内山 栄八 (うちやまえいはち)】

生没年不詳

箱館新選組二分隊。
桑名藩出身。
仙台にて新選組に加盟、蝦夷へ行く。
明治元年10月24日、七重村で負傷するも全快。
後に弁天台場で降伏。






【内山 勘左衛門 (うちやまかんざえもん)】

伊勢出身といわれ、新選組隊士だったという回顧録を残す。






【内山 元次郎 (うちやまげんじろう)】

生没年不詳

平同志。
慶応4年1月、品川にて脱走とある。






【内山 与八 (うちやまよはち)】

生没年不詳

平同士。






【内海 次郎 (うつみじろう)】

天保7年〜没年不詳
(1836年〜?)

武蔵国川越出身。
後、御陵衛士。
二郎とも。
元治元年(1864年)に、伊東甲子太郎らと共に新選組に入隊。
慶応2年(1866年)9月の三条制札事件に出動し、原田左之助らと同額の20両の褒賞金の活躍。
慶応3年(1867年)3月に伊東甲子太郎らと同意して御陵衛士を結成。新選組を離脱する。
油小路の変時は、阿部十郎と共に巨椋ヶ池へ外出中だったため難を逃れ、薩摩藩に属した後、阿部十郎、佐原太郎と近藤妾宅で療養中の沖田を襲撃したが、沖田は伏見奉行所へ移ったあとだった。
その数刻の後、二条城から帰参する近藤を目撃し、伏見の薩摩屋敷にいた篠原、加納、富山らに応援を頼み伏見街道墨染の藤森神社辺りで近藤を襲った。
戊辰戦争には新政府軍として参戦。明治2年(1869年)には戒光寺に御陵衛士墓碑を建立する。その後、消息不明。


★[第一次行軍録]
八番隊






【梅戸 勝之進 (うめどかつのしん)】

生没年不詳

出身地不明。
慶応2年(1866年)頃に新選組に入隊。
慶応3年(1867年)6月には、見廻組並御雇の格を受けている。
天満屋事件において、苦戦していた斎藤一を助けて重傷を負ったが、一命は取り留める。
鳥羽伏見の戦いには旗役として新選組に従軍。顔に生々しい刀痕が残っていたと言う。
甲州勝沼の戦い後、斎藤一らと共に会津へ赴き、駕籠役を務める。
その後、9月12日に仙台で降伏。
その後の消息は不明。新選組慰霊碑の建立された明治9年1876年以前に没したと思われる。

★[編成表]
慶応三年十二月/平同志
慶応四年一月/平同志
★[幕府召抱え名簿]/平同志
★[会津三代在陣者名簿]籠役






【海野 七五三 (うんのしめ)】

柴田彦三郎の別称。






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