新選組隊士人名事典


【し】 39件

【斯波 良作 (しばりょうさく)】

天保11年?〜没年不詳
(1840年?〜?)

司馬良作、斯波良蔵、斯波雄蔵とも。
平同士ながら、文学師範。
島田魁によれば、奥州仙台出身。
慶応元年4月27日、土方・伊東が斎藤・藤堂を伴って江戸へ下り、隊士募集をした際に応募。25歳。
年月日不明ながら海外への渡航を志願、許されて除隊し、以降の消息は不明。
斯波良作・斯波雄蔵は文学師範として記名されるが、資料によっていずれの場合もある。
司馬良作は慶応元年入隊名簿に9番隊士として記名。
斯波良蔵は西村兼文『壬生浪士始末記』にて海外渡航者として記名されている。
慶応元年の隊士募集応募者では、本項「司馬良作」と並び「斯波縁之助(しば えんのすけ)」なる者の入隊が記されている。
文学師範としてのみ名の残る「斯波雄蔵」はこのいずれかと考えられるが、縁之助については以後の記録も多く見られるため名を変えた形跡が無く、司馬良作=斯波雄蔵である、と推測される。
苗字が同じで入隊が同期、出身が同地と思われ、年齢が1歳差(縁之助は入隊時26歳)であること、縁之助は元僧侶とする声(川村三郎)があり師範となった雄蔵同様学識があったと思われることなどから、両名は兄弟ないしは何らかの縁者ではないかとする説もある。






【渋沢 吉之助 (しぶさわきちのすけ)】

生没年不詳

明治元年(1868)10月、仙台にて降伏。
会津戦争期に新選組歩兵小頭役を務めた藤本吉之介の事と思われる。






【島崎 勇 (しまざきいさみ)】

近藤勇が安政5年(1858)頃、名乗っていた名。






【島崎 勝太 (しまざきかつた)】

近藤勇が嘉永2年(1849)10月に近藤周助の養子となり、周助の生家の島崎姓を名乗ってからの名。






【島田 魁 (しまだかい)】





文政11年1月15日〜明治33年3月20日
(1828年2月29日〜1900年3月20日)

嶋田とも。諱は義明。
美濃国雄総村庄屋・近藤伊右衛門の次男として生誕。
剣術に目覚め、名古屋城内の御前試合で優勝、大垣藩の嶋田才に見初められ養子になり、嶋田家を継ぐ。
江戸に出て心形刀流・坪内主馬道場で修行。
文久3年(1863年)5月新選組に入隊、諸士調役兼監察の任に就く。巨漢で怪力の持ち主。
元治元年(1864年)6月には古高俊太郎捕縛に貢献。後、組織再編で伍長も兼任。
御陵衛士残党による近藤勇襲撃では狙撃された近藤の馬を走らせ命を救った。
鳥羽伏見の戦いでは重装備の永倉が土塀を乗り越えられないのを島田が軽々と引き上げた逸話がある。
その後、箱館まで戊辰戦争を戦い抜いた。
明治2年(1869年)5月に降伏。11月まで謹慎。後、名古屋藩に預けられ、解かれると京都で剣術道場を開く。この間、新政府への出仕の話を断り続け明治19年(1886年)西本願寺の夜間警備員となる。
明治33年3月20日勤務先の西本願寺で倒れ73歳で死去した。葬儀には永倉も参列。
墓は東大谷墓地にあったが現在は無くなり、遺骨は東大谷祖廟に納骨してある。

後世に「島田魁日記」をはじめ様々な記録や品々を遺す。






【島田 幸之助 (しまだこうのすけ)】

生没年不詳

★[幕府召抱え名簿]
平同志






【島田 弥一郎 (しまだやいちろう)】

生没年不詳

平同志。
元治元年 伊東らが加盟上洛した際の上洛名簿に名がある。






【清水 正吉 (しみず)】

生没年不詳

島田魁の記録にあり、離局後、薩摩藩の付属とある。






【清水 卯吉 (しみずうきち)】

生没年不詳

白川関門で討死とある。

★[島田魁文書]
(京都より会津)/局長附人数
★[会津三代在陣者名簿]
隊長附
★[中島登名簿]
清水宇吉の名で見出せる。






【清水 休左衛門 (しみずきゅうざえもん)】

(1838〜?)

平隊士。
慶応元年(1865)4月、江戸にて入隊。
慶応元年7月以前に消息を絶つ。
離局したと思われる。






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