新選組隊士人名事典


【し】 39件

【清水 吾一 (しみずごいち)】

生没年不詳

文久3年浪士組に参加。
芹沢、近藤らに共鳴し、京都残留。
新選組母胎の一員となるが、間もなく根岸友山、鈴木長蔵、遠藤丈庵らと帰府し新徴組に参じた。






【志村 武蔵 (しむらたけぞう)】



天保4年〜没年不詳
(1833年〜?)

相州出身。伍長。大砲差図役頭取。
慶応元年(1865年)頃の入隊とされる。
戊辰戦争時は、鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いに参戦。山口二郎(斎藤一)らと共に会津戦争に参加し、如来堂の戦いで離散。
東京で病死。






【下村 嗣次 (しもむらつぐじ)】

芹沢鴨の前名。






【宿院 良蔵 (しゅくいんりょうぞう)】

文政4年頃?〜慶応4年1月6日
(1821年頃?〜1868年1月30日)

平隊士。名を良三、良造とも。
出身は京都、もしくは丹波亀山藩。
死亡時の年齢は47・8歳だったというが真偽は不明。
一般的には池田屋事件に参戦した隊士として有名で、入隊時期に関しては、正確には不明なものの、文久3年(1863年)に起きた八月十八日の政変に参加している事から、それ以前、つまり、新選組の前身・壬生浪士組の頃からの隊士である。
元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では土方歳三隊に属し、屋外の守備を担当。褒賞金として金15両を得ている。同年9月の葛山武八郎の切腹に際しては、谷三十郎と共に、頼越人となって光縁寺を訪れている。
さらに同年12月の組織編成では、井上源三郎の三番組に属している。
慶応3年(1867年)6月10日の幕府召抱えでは平同士として名を連ねている。
慶応4年(1868年)1月3日から始まった戊辰戦争第一の役鳥羽・伏見の戦いを経て、1月6日に橋本の戦いで戦死。異説として、1月3日に戦死という説もある。






【白石 五六郎 (しらいしごろくろう)】

生没年不詳

甲陽鎮撫隊に従軍した隊士と伝わる。
一説に春日隊とも。

慶応4年(1868)3月6日の甲州勝沼戦争で岩崎山に陣を構えた隊に所属。
土佐藩士・小笠原謙吉の部隊に抜刀して斬り込むが、後に続いたのはたったの8名。白石は、左右前後にいる敵を斬り倒し、敵の中心へ行き、目の前に敵将らしい人物と激しく斬り合うが、後ろから斬りつけられて絶命。
その後、白石の刀の刃こぼれを検分した小笠原は、
「すべて鍔先五寸(15a程)にある。余程の剣客であっただろう」
と感嘆したという。






【白石 鷹之進 (しらいしたかのしん)】

(1839〜?)

陸奥国弘前(江戸とも)出身。伍長。
名は盛龍?、改名は白石厳。

慶応元年(1865)4月、江戸にて入隊。
江戸の生まれらしい。

慶応2年(1866)12月以前に消息を絶つ。
離局したと思われる。
新選組離局後、旧藩に復活したらしく、箱館戦争に新選組と敵対する津軽藩兵の一員として従軍している。






【白井 鷹之進 (しらいたかのしん)】

生没年不詳

平同志。 慶応元年4月土方、伊東らの江戸下りの際に加盟上洛。27歳。
土方の面談において剣術は留田流、馬術は源家古術と言ったそうだ。






【白戸 友衛 (しらとともえ)】

生没年不詳

箱館で戦死。

★[島田魁文書]
(京都より会津)/局長附人数
★[中島登名簿]
大砲護衛役
★[会津三代在陣者名簿]
大砲警備隊下役






【白原 七郎右衛門 (しらはらしちろううえもん)】

生没年不詳

慶応三年六月の幕府召抱えで仮同志となるのを拒み、茨木司らと脱隊を望んで京都守護職屋敷に折衝、結局隊を追放となる。

★[幕府召抱え名簿]
仮同志






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