新選組隊士人名事典


【た】 71件

【田中 律造 (たなかりつぞう)】

生没年不詳

勝軍山で負傷、仙台に残留した。

★[島田魁文書]
(京都より会津)/局長附人数
★[中島登名簿]
下役
★[会津三代在陣者名簿]
大砲警備隊下役






【田辺 太三郎 (たなべたさぶろう)】

鳥羽伏見の戦いで戦死と伝わるが、田村大三郎のことと考えられる。






【田辺 広之助 (たなべひろのすけ)】

生没年不詳

慶応元年(1865)4月、江戸での隊士募集に応じるが、以後の名簿に名前が無い事から正式に入隊しなかったのか、別名で入隊したと思われる。






【谷川 辰蔵 (たにがわたつぞう)】

(1836頃〜1894)

備中国倉敷出身。
平隊士。
谷川辰造・谷川辰吉とも。本名は和栗吉次郎、改名は井汲恭平。
商屋・和栗仁左衛門の三男で、母はユキ。

元冶2年(1865)春、京坂に志士として入り、潜伏先は松屋町のぜんざい屋・石蔵屋政右衛門方で、ぜんざい屋の主人の正体は、元武者小路家の家来・本多大内蔵。
ここには、土佐藩の大利鼎吉や那須盛馬らが潜伏していた。
土佐脱藩の長州びいきの志士らが、長州征伐にあたる幕府軍の混乱を引き起こすため、大坂城に火を放つという計画をしていた。
その過激さについてゆけなかった谷川は、顔見知りの谷三十郎とたまたま出会い、大坂焼き討ちの計画を打ち明け、ぜんざい屋事件が起こる。
その功績が認められ、新選組に入隊。

慶応3年(1867)12月に大坂で脱走。
その後、阿部十郎を頼り、徴兵七番隊として奥州まで転戦。






【谷口 四郎兵衛 (たにぐちしろべえ)】



生没年不詳

箱館新選組差図役。
旧桑名藩士。






【谷 三十郎 (たにさんじゅうろう)】

生年不詳〜慶応2年4月1日
(?〜1866年5月15日)

七番隊組長で、槍術師範であったともされる。
備中松山藩生まれ。諱は供国。
幼少の頃、父・谷三治郎より剣術を学んでいた。槍も使ったという話があるが、これは弟・谷万太郎と混同された可能性もある。備中松山藩主板倉勝静に仕えていたが、安政3年(1856年)頃、不祥事により谷家は断絶(これは三十郎本人でなく弟の谷万太郎の不祥事とも言われ、定かでない)。
新選組への入隊は池田屋事件以前で、池田屋事件の際は近藤隊に属している。
元治2年(慶応元年)1月、大阪取締りの際、弟・万太郎ら四人で尊攘過激派による大阪焼き討ち計画を未然に防いでいる。(ぜんざい屋事件)その後同じ慶応元年、7番隊組長に抜擢される。(この時槍術指導は弟・万太郎の役職とされる)
谷三十郎の槍は「千石もの」と言われたと伝わるが、逆に実戦ではほとんど活躍していないただの道場槍であったとも見られている。(あるいは弟・谷万太郎と混同されたとも考えられている。) 三十郎が隊士の切腹の際の介錯を失敗したと言う話も伝わるが、その隊士が切腹するのは記録では三十郎の死後の事であるため、信憑性は乏しい。
慶応2年4月1日、三十郎の死体が東山の祇園社(現在の八坂神社)石段下で発見された。死因は「頓死」とだけあり、明らかではない。 暗殺説、病死説の二つの説もある。






【谷 周平 (たにしゅうへい)】

嘉永元年〜明治34年12月2日
(1848年〜1901年12月2日)

備中松山藩出身。
別称として谷昌武、正武などがある。
新選組隊士・谷三十郎と谷万太郎の実弟。兄と共に新選組に加盟した後、近藤勇の養子として近藤周平を名乗っている。
池田屋事件の際には、養父・勇に従って参加するが、兄三十郎の死後、養子縁組を解消して谷姓に復姓。
のち新選組にあって監察職を務めている。
鳥羽伏見の戦いの敗走の後、大坂城へ撤退した新選組は海路江戸へ戻るが、その際に隊を脱走。以後の消息は不明である。
明治後、いったん出身地の備中松山に戻ったが、明治5年頃には再度故郷を後にし、播田ツルという年上の女性と結婚するも、明治20年に離婚。
山陽鉄道神戸事務所の職員として働き、53歳で病死した。
なお、正武には政栄という女子がいたという。






【谷 万太郎 (たにまんたろう)】



天保6年〜明治19年6月30日
(1835年〜1886年6月30日)

大坂屯所隊長。
槍術が得意であった。
兄は谷三十郎、弟は谷周平。谷3兄弟の次男である。
備中松山藩士であったが不祥事を起こし、大坂で医師の岩田文硯の食客となり、文硯の娘スエを娶って道場を開く。この道場での弟子に阿部十郎がいる。
1863年頃、新選組に入隊したが、大坂に残って大坂屯所隊長となった。
池田屋事件でも槍を持って突入し、三兄弟ではもっとも多い報奨金を賜り、大坂で起こったぜんざい屋事件では兄・三十郎と阿部十郎らとともに石蔵屋を包囲し、大利鼎吉を討った。兄の三十郎の死後しばらくしてから、新選組から離脱。
明治時代には大坂の釣鐘町で道場経営をしていた。
晩年に妻の岩田スエと離婚し、一人息子の弁太郎を岩田家に預ける。
明治19年、死亡。享年51。
岩田弁太郎が建てた墓が本伝寺にある。






【田原 四郎 (たはらしろう)】

生没年不詳

陸奥国会津藩士。
会津藩からの派遣隊士。
元冶元年(1864)6月、京都にて入隊。

会津藩士・田原左近の次男で、元冶元年6月5日の池田屋事件後、会津藩は人員不足の新選組に応援隊士を派遣。その中の一人がこの田原四郎。
同年6月10日の明保野亭事件に新選組隊士として、武田観柳斎の指揮の下に出動。
その後、会津藩へ復帰により離隊。

慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いは、会津藩の新番組の小原内記隊に所属して、参加。

会津若松城下の戦いでは、城外で戦う。
同年9月12日の降伏開城後、塩川に謹慎。

明治2年(1869)1月に越後高田藩で謹慎。

明治3年(1870)には斗南藩領へ冬季陸行で移住。士族として移住したが、斗南藩に仕えることなく農業などに従事した。






【玉置 伊之助 (たまおきいのすけ)】

生没年不詳

★[編成表]
慶応三年十二月/平同志
慶応四年一月/平同志






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