新選組関連人物事典


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【あぐり (あぐり)】

1857年〜1863年

新選組隊士美男五人衆の一人、佐々木愛次郎の恋人。
京都二条の八百屋の娘。

文久3年(1863)6月、局長の芹沢が佐伯や佐々木らと共に、京都因幡薬師境内で大虎の見世物を見物した時に、芹沢が揉め事を起こした。佐々木が場を仲裁し、興行師を救ったのがきっかけで、興行師の姪で2つ違いの17歳のあぐりと恋仲になる。
しかし、芹沢が横恋慕をし、妾として差し出す事を望んだ。
8月2日、夜に佐伯らが二人を待ち伏せ朱雀千本で佐々木を惨殺し、あぐりは佐伯に乱暴され、舌を噛み切り絶命した。





【明里 (あけさと)】

生没年不詳

小説家の子母澤寛が昭和になって八木為三郎(新選組が屯所としていた八木家の子息)からの聞き書きした『新選組遺聞』に登場。
明里は京都島原の天神(芸妓の位)で、総長・山南敬助の馴染みだった。21から22歳ぐらいで、上品な感じの女性だった。島原から身を退いて里で暮らしていた。
元治2年(1865年)2月23日に山南は罪を受け切腹することになった際、為三郎が様子を見に門を出ると明里が大急ぎで前を通り過ぎ、山南の名を呼びながら出窓をしきりに叩いた。格子戸の障子が開き山南が顔を出し、明里は格子を掴んで泣き崩れた。山南は淋しげな眼で明里を見つめ2、30分ほど言葉を交わした。そのうち人が来て明里を連れ去ろうとするが明里は格子を掴んで離れようとしなかった。それを見ていた山南はすっと障子を閉じてしまった。
泣きながら去ってゆく明里の姿を為三郎は見ている。それから程無く山南は切腹した。
以上が「格子戸の別れ」として有名な場面だが、子母澤氏の新選組物は創作が多く入っているとされ、山南の切腹について記した新選組幹部の永倉新八が書き残した記録には明里の名は出てこない。このため明里のエピソードは創作ではないかと考えられている。





【糸里 (いとさと)】

生没年不詳

島原輪違屋の遊女。
文久3年(1863)9月18日、芹沢鴨暗殺の当夜、平間重助と寝ているところを、布団の上から二突き刀をつきたてられるが、声を立てず死んだふりをして命拾いした。





【井上 松五郎 (いのうえまつごろう)】

1826年〜1871年

井上源三郎の実兄。
天保15年(1844)父の病気の為、家督を継ぐ。
嘉永7年(1854)八王子千人同心の石坂弥次右衛門組世話役となり、切米十俵一人扶持と給わる。
天然理心流3代目近藤周助の高弟で、日野佐藤道場の世話人の一人であり、多摩地方では名を知られた剣客だった。
文久3年(1863)2月、将軍家茂に従い上洛。
二条城御小屋番、石清水行幸御警備などを務め、その頃、上洛して壬生浪士組幹部となっていた近藤勇、土方歳三の相談役としても、活躍した。





【伊庭 八郎 (いばはちろう)】





天保14年〜明治2年
(1843〜1869)

伊庭軍兵衛秀業の長男。
江戸御徒町・心形刀流伊庭道場の御曹司。
「伊庭の小天狗」「伊庭の麒麟児」と異名をとる。

幕府大御番衆〜奥詰〜講武所教授方。

慶応2年(1866年)に奥詰が遊撃隊となり、翌3年10月、将軍を護衛し、伏見布陣。翌4年1月鳥羽伏見の戦いに敗退。

江戸帰還後、木更津で請西藩主・林昌之助忠崇に協力要請し、館山から出帆、相模真鶴に上陸。その後転陣、再編成し、第二軍隊長に。

上野戦争が始まると、これに呼応し、江戸に向かう新政府軍を阻止する為箱根の関所を占拠しようとして小田原藩兵と箱根山崎で戦いが起こり、三枚橋で八郎は左手首の皮一枚を残して斬られる。

江戸退却後、八郎は怪我の治療後に榎本艦隊に投じ蝦夷地へ出帆するも、銚子沖で乗船座礁。救出され、横浜から英艦で箱館へ。

箱館到着後、選挙で歩兵頭並、遊撃隊隊長に。
木古内の戦いで重傷を負い、箱館病院で治療を受けるが、五稜郭開城前夜にモルヒネを飲み死亡。





【植木屋平五郎 (うえきやへいごろう)】

1836年〜1912年

本名は柴田平五良。
若い頃から庭師として修業し、文久2年(1862)に千駄ヶ谷池尻大橋に住居を移すと、大名屋敷などに出入りした腕利きの植木職人。

慶応4年(1868)結核だった沖田総司を預かり、納屋にかくまい最期まで面倒を見たといわれる。
享年77歳。





【植野 (うえの)】

生没年不詳

近藤勇の馴染みの芸妓、本名・年齢は不明。

近藤は植野を落籍させ、実父の家で遊ばせていたが、美人ではなかったという。

植野の父は、所司大部屋の部屋頭で、天神の御前通りに住んでいたといわれる。





【榎本 武揚 (えのもとたけあき)】






天保7年8月25日〜明治41年10月26日
(1836〜1908)

東京生まれ。幕臣。名は釜次郎。
安政3年(1856)長崎海軍伝習所に入所。
文久2年(1862)オランダ留学。海の万国公法ともいうべき「海律全書」をオランダ語で写し、注釈もオランダ語にて加えてきた。
ヒップス造船所にて開陽丸の設計から立ち会い、完成後、同艦に乗船帰国するも、情勢は幕府に良くなくなっていた。
早くから主戦派だと勝海舟に危険視されていて、猫の首に鈴を付けるか如く、明治元年(1868)海軍副総裁となる。
江戸城開城後、官軍による軍艦の接収を「自分達のオランダ留学の結晶をみすみす渡してなるものか」と拒否し、江戸湾を脱走。
箱館五稜郭で蝦夷共和国の樹立を願い、官軍に抵抗・抗戦するが、降伏。
謹慎の後、黒田清隆の庇護の下、北海道開発に従事。
明治7年(1874)海軍中将兼駐露公使となり、翌年樺太・千島交換条約を締結。
海軍卿、駐清公使を経て第1次伊藤内閣逓相に就任。
黒田内閣農商務相・文相、第1次山県内閣文相、第1次松方内閣外相等を歴任した。





【お梅 (おうめ)】

生年不詳〜1863年

京都四条堀川の大物問屋菱屋の妾。

菱屋は、芹沢鴨の注文を受け着物を納入するが、なかなか代金は払われなかった。そこで「男の使用人よりも相手が女であれば、角も立たず、断りにくい」と考えて、お梅を屯所へ行かせた。
ところが芹沢は、美しいお梅を強引に我が物としてしまい、お梅は芹沢の物となる。

文久3年(1863)9月16(18)日、芹沢は泥酔して八木邸に帰宅。
お梅も一緒に寝ていたが、真夜中に襲撃され、お梅も道連れに斬られる。





【沖田 キン (おきたきん)】

1836年〜1908年

沖田総司の次姉。
越後三根山藩士・中野伝之烝由秀、23俵2人扶持の妻。

慶応4年(1868)幕府瓦解後、2月25日には藩主・牧野播磨守に従い、夫と共に江戸から越後へ。

維新後は、東京へ戻り、東京下谷で73歳で没。





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