新選組関連人物事典


【こ】 7件

【小島 鹿之助 (こじましかのすけ)】



1829年〜1900年

近藤勇の長年の盟友で、勇より4歳年上の兄貴分。
土方の義兄である佐藤彦五郎を加えた3人の結びつきは強く、義兄弟の契りも結んでいる。

武州多摩郡小野路村(現・東京都町田市小野路町)三十四組合村の寄場名主。

鹿之助は、文武両道を目指した人物で、遠山雲如や大沼枕山という文人に付いて漢詩を学んだ一方、剣は父の角左衛門と共に近藤周助の天然理心流を学ぶ。

勇は、周助と連れ立ち、足繁く小野路を訪れ村人に剣術指南をした事から、勇と鹿之助の結びつきは深くなり、鹿之助は、勇に漢詩を教えるなどしていくうちに交流が深まっていった。
小野路には、土方・沖田・山南も試衛館の剣術師範として訪れ、鹿之助は彼らの世話もよく焼いたという。

新選組が結成されてからは、彦五郎と同様に物心内面の支援者となる。
また勇らが江戸に戻り、甲陽鎮撫隊となった時は、「小野路農兵隊」を組織、隊長として援軍に向かう予定だったが、残念ながら間に合わなかった。
明治になってからは、彦五郎と共に賊軍といわれた新選組の名誉を挽回すべく努力し、「詔歳遺稿上下」など書物を残す。






【駒野 (こまの)】

生没年不詳

京都三本木の芸妓で近藤勇の愛人。
近藤に落籍され、男児を産む。

慶応4年(1868)4月、板橋で刑死した近藤の首級が三条河原に晒されると、駒野は自ずから辻講釈師に金を与えて、京都での近藤の手柄や追悼の一席を口演させた。
しかしその場で新政府軍に捕まり、髪を切られて追放されたらしい。

また明治13年(1880)に深雪太夫が駒野を訪ね、駒野が産んだ男の子の消息を尋ねたところ、「5つまで里子に出して、7つまで手元で育てたが、人の勧めで東福寺に預けて仏弟子にし、今では末頼もしい智識になった」と答え、その子は立派な僧となって亡父の近藤勇の菩提を弔ったという話がある。
しかし、この話は深雪太夫が早くに死亡した説もあり、真偽は不明。






【小楽 (こらく)】

生没年不詳

京都上七軒の舞妓。
土方歳三の馴染みの妓女の一人と思われる。

文久3年(1863)11月下旬、土方歳三が小野路の小島鹿之助にあてた手紙に名前を連ねている。
詳細は不明。






【近藤 周助 (こんどうしゅうすけ)】

1792年〜1867年

近藤勇の養父。
天然理心流三代目。
晩年に周斎と改名。

農家の3男坊の勇の器量に惚れこみ、養子にした。

武蔵国多摩郡小山村(現・東京都町田市小山町)に生まれ、20歳の時に近藤三助の道場に入門。
剣の腕を上げ、天保元年(1830)近藤宗家三代目を継ぐ。
門弟は、八王子千人同心と呼ばれる半農半士が中心で、周助は、精力的に八王子から日野、府中へも出稽古に向かい勢力を拡大。
周助が壮年期に達した時には、門人が300人にも達していたという。
天保10年(1839)周助は、江戸牛込柳町市ヶ谷甲良屋敷(現・新宿区甲良町)に、新しい道場を新設。これが、試衛館道場となる。

勇らが京に上った直後、周斎は、脳卒中で倒れ、四谷の隠居所で療養生活に入った。
亡くなったのは、勇が処刑される前年の慶応3年(1867)10月28日。






【近藤 瓊子 (こんどうたまこ)】

1862年〜1886年

近藤勇とツネの子。
タマとも。
 勇が浪士隊に参加し、京都へ上洛した後は、母・ツネと暮らし、瓊子7歳の祝いに勇は、京都西陣織の帯を送る。
古代紫の地に小さく鶴が飛ぶ柄の金糸金箔入の高級品で、後に裁断され刀袋に直されている。

 父・勇の死後、瓊子は宮川音五郎の家に母と身を寄せ、15歳の時、音五郎の息子・勇五郎26歳と結婚し、近藤姓を残した。
 明治16年(1883)8月7日に長男・久太郎を産むも、翌年6月、瓊子は25歳の若さで早世。
母のツネは、悲嘆のうちに6年後死去。

 瓊子の遺児の久太郎は成長して、日清戦争に出征し、高力屯で戦病死した為、近藤家の直系はここで、断絶する。






【近藤 ツネ (こんどうつね)】



1837年〜1892年

近藤勇の妻。
江戸の清水家(御三家の一つ)家臣・松井八十五郎の長女。
ツネは、一橋家の祐筆を務め、万延元年(1860)3月に勇と結婚。

文久2年(1862)に瓊子(タマ)を産むが、結婚生活は実質3年程。
文久3年(1863)に勇が京都へ上洛した後は、養父・周斎と娘の世話をしつつ、江戸で留守を守って暮らした。

夫が快挙上げ、浮いた話が耳に入るが、耐えぬいたという。

養父周斎は、慶応3年に病死。

勇の刑死後は、宮川音五郎(勇の長兄)宅にタマと、身を寄せ、音五郎の息子・勇五郎を婿に迎え、久太郎という初孫を得たのもつかの間、娘・タマが病死。
ツネ自身は、再婚をせず、自殺未遂をするなど、孤独と忍耐の多い生涯を終える。






【近藤 フデ (こんどうふで)】

生没年不詳

近藤周助の妻で勇の義母。
周助の9人目の妻と言われているが、謎だらけの女性。
残されているエピソードを見ると、評判は芳しくない意地悪な人だったような印象のものが多い。

沖田総司が9歳で試衛館に住み込みで入門するが、沖田のことを周助の隠し子だと思い、憎悪していたという。
朝から晩まで、家事や道場の掃除を言いつけられ、稽古も出来ず、くたくたになった総司は、涙をこぼしたと伝わる。
勇もこの怖い義母には、頭が上がらなかったといわれる。







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