新選組関連人物事典


【い】 3件

【糸里 (いとさと)】

生没年不詳

島原輪違屋の遊女。
文久3年(1863)9月18日、芹沢鴨暗殺の当夜、平間重助と寝ているところを、布団の上から二突き刀をつきたてられるが、声を立てず死んだふりをして命拾いした。






【井上 松五郎 (いのうえまつごろう)】

1826年〜1871年

井上源三郎の実兄。
天保15年(1844)父の病気の為、家督を継ぐ。
嘉永7年(1854)八王子千人同心の石坂弥次右衛門組世話役となり、切米十俵一人扶持と給わる。
天然理心流3代目近藤周助の高弟で、日野佐藤道場の世話人の一人であり、多摩地方では名を知られた剣客だった。
文久3年(1863)2月、将軍家茂に従い上洛。
二条城御小屋番、石清水行幸御警備などを務め、その頃、上洛して壬生浪士組幹部となっていた近藤勇、土方歳三の相談役としても、活躍した。






【伊庭 八郎 (いばはちろう)】





天保14年〜明治2年
(1843〜1869)

伊庭軍兵衛秀業の長男。
江戸御徒町・心形刀流伊庭道場の御曹司。
「伊庭の小天狗」「伊庭の麒麟児」と異名をとる。

幕府大御番衆〜奥詰〜講武所教授方。

慶応2年(1866年)に奥詰が遊撃隊となり、翌3年10月、将軍を護衛し、伏見布陣。翌4年1月鳥羽伏見の戦いに敗退。

江戸帰還後、木更津で請西藩主・林昌之助忠崇に協力要請し、館山から出帆、相模真鶴に上陸。その後転陣、再編成し、第二軍隊長に。

上野戦争が始まると、これに呼応し、江戸に向かう新政府軍を阻止する為箱根の関所を占拠しようとして小田原藩兵と箱根山崎で戦いが起こり、三枚橋で八郎は左手首の皮一枚を残して斬られる。

江戸退却後、八郎は怪我の治療後に榎本艦隊に投じ蝦夷地へ出帆するも、銚子沖で乗船座礁。救出され、横浜から英艦で箱館へ。

箱館到着後、選挙で歩兵頭並、遊撃隊隊長に。
木古内の戦いで重傷を負い、箱館病院で治療を受けるが、五稜郭開城前夜にモルヒネを飲み死亡。







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