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【な】 1件

【中島 三郎助 (なかじまさぶろうすけ)】



文政4年〜明治2年5月16日
(1821年〜1869年6月25日)

幕臣。箱館奉行並。諱は永胤、雅号は木鷄。
浦賀奉行与力時、ペリー艦隊使者との交渉を勤めた。
安政2年(1855年)幕府が新設した長崎海軍伝習所に第一期生として入所し、安政5年(1868年)に築地軍艦操練所教授方を任せられ、後、軍艦操練所頭取。
戊辰戦争が勃発すると、二人の息子を伴い、江戸品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海。
箱館政権下では箱館奉行並を勤め、本陣前衛の千代ケ岡陣屋隊長として奮戦、新政府軍より降伏勧告を受けるもこれを拒否。徹底抗戦を主張。本陣五稜郭降伏2日前の明治2年(1869年)5月16日、長男・恒太郎(22歳)次男・英次郎(19歳)と共に戦死。享年49。
中島は俳人としても知られ、江戸脱出の際に
「乙島(ツバメ)や 翌日(あす)は常盤の国の春」と詠んだ。

明治2年(1869年)3月、箱館追討令が下された事を知った箱館政権幹部らは、同月14日に咬菜園で別盃の宴を催した。その際、中島は以下の二つを辞世の句として残した。
「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」
「われもまた 死士と呼ばれん 白牡丹」

中島父子を追悼して千代ケ岡陣屋付近の土地が中島町と名付けられた。







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