新選組関連人物事典


【は】 2件

【花君太夫 (はなぎみだゆう)】

生没年不詳

京都島原の太夫。
文久3年(1863)11月下旬、土方歳三が小野路の小島鹿之助にあてた手紙に自分が関わった女性として名が残っている。
しかし、詳細は不明。

当時の島原遊女には太夫・天神・端女郎・鹿恋(囲い)引舟という位があり、太夫はその中でも最高位であり、諸芸、教養を身につけた格式の高いものだった。






【原田 マサ (はらだまさ)】

生没年不詳

原田左之助の妻。
京での新選組は、毎日が明日をも知れぬ命だったため、入隊中に結婚するものは珍しかった。
幹部クラスで所帯を持ったのは、左之助ただ一人で、遊女や芸妓を囲う事は多く見られたが、マサは仏光寺の町人の娘。

左之助とマサは、慶応元年(1865)の夏に結婚。醒ヶ谷通り七条下ルの鎌谷町に新居を構えた。
翌年、長男の茂が生まれ、次男も生まれるが早死。
マサと左之助の生活は3年足らずで、永久の別れが訪れたのは、鳥羽伏見の戦いの直前。

左之助は、戦の分配金200両をマサに渡し、「俺に万が一の事があれば、せがれの茂を頼む。立派な武士に育ててくれ。」と、何度も言って出かけたという。
その後、左之助は上野で戦死。

官軍も左之助の死を確認出来ていなかったので、マサは維新後も数度の尋問を受けている。

マサが、左之助の死を知ったのは、数十年後の事だったらしい。







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