新選組関連人物事典


【ひ】 2件

【土方 為次郎 (ひじかたためじろう)】

1812年〜1883年

土方方歳三の長兄。
盲人だったが「目明きでだったら、畳の上では死ねない人物」と言われるほどの、豪快で陽気な人物であった。
浄瑠璃や歌、俳句を愛した遊び人でもあったという。
土方家の家督は、次兄の喜六に任せ、為次郎は自由奔放な毎日を送る。
歳三とは、23歳も離れており、父親のようにかわいがったと言われる。
府中宿の遊郭で遊んで帰ってきた時、多摩川が増水していたが、為次郎は着物を脱ぎ、これを丸めて頭に巻き、見事泳ぎきって無事に石田村に戻ってきた。土方家の人々は、あきれたらしい。
また新選組が江戸に戻り、病身の沖田が佐藤彦五郎宅に泊まった時、沖田が「まだこの通り元気ですよ」と四股を踏むマネをしたが、それを見て為次郎は、「えらい×2、その勇気で押し通せ」と大声で沖田を鼓舞したといわれる。
また歳三の戦死を聞いて、のぶなどを前にし、
「あいつの魂はもうここへ帰って来ている」
と、皆を励ます優しい一面を持っていた。






【土方 勇太郎 (ひじかたゆうたろう)】

1840年〜1870年

武州魂郡新井村中島で土方甚蔵の長男として生誕。この土方家は、歳三の土方家とは違い、八王子千人同心の家柄。

安政6年(1859)3月9日、勇太郎は歳三と共に、近藤周助の天然理心流に入門。同年9月には近藤勇から、「中極意目録」を授与。

八王子千人同心組頭配下として同心世話役を務め、文久3年(1863)2月に八王子千人同心・同心炮術方第四番小隊として、将軍・家茂に従い上洛。
同年4月8日に、井上松五郎の宿舎を訪ねて先に来ていた歳三と井上源三郎らと酒宴が行われている。

戊辰戦争時は、日光勤番として千人隊(旧八王子千人同心)詰所にいた勇五郎は、歳三の使者の中島登の来訪を受け、歳三のいる今市宿に向かう。
歳三は久々に勇五郎を見て涙を溜め、宇都宮戦争を語り、「激戦に耐えれず逃げ出そうとしたところを、手打ちにした兵士の墓を建ててくれ」と言い、金一封を渡したという。
この話は、斎藤一諾斎が語ったもので、「今度はもう無事で故郷に帰れそうにないから」と言って、生家に送るように遺品も託したと伝わる。
現在、日野の土方家に伝わる経由不明の「和泉守兼定」が、その遺品だったとも?。

その後の動向は不明。
勇太郎は帰郷したと思われる。

明治2年(1869)に戊辰戦争が終結すると、明治3年(1870)12月2日に、享年31歳という若さで死去。







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