新選組関連人物事典


【ふ】 2件

【福田 平馬 (ふくだへいま)】

生没年不詳

幕臣で神奈川奉行所に定役として勤務。
近藤勇の養父・周斎の門人。
人柄も良く、近藤勇を父のように慕い、尊敬していた。

文久3年(1863)近藤らの上洛に際し、道場の世話役の1人となり留守を預かった人物。

慶応3年(1867)11月の周斎の葬儀に参列。
翌4年(1868)2月、近藤の計らいで彼の妻子のツネとタマを本郷村成願寺に移し、近藤の住居だった牛込廿騎町の家を譲られる。

同月、甲陽鎮撫隊に参加。3月5日に西軍の甲府入城を知った近藤の命令で話し合いに赴くが、途中で発砲を受け帰陣する。
4月初旬、近藤が西軍に捕われ、板橋に監禁された事を成願寺にいる家族に知らせ、14日には勝海舟を訪ね、救護を懇請している。

同年、府中定役となり駿府へ移住。
間もなくして、神奈川県庁の役人になったと伝わる。






【福地 源一郎 (ふくちげんいちろう)】



天保12年3月23日〜?年1月4日
(1841年5月13日〜1906年1月4日)

ジャーナリスト、作家。
幼名は八十吉。号は桜痴(櫻癡とも)。

 1841年、長崎で医師・福地苟庵の息子として誕生。長崎で蘭学を学び、1857年に矢田堀景蔵に従い江戸に出、英語を森山栄之助の下で学ぶ。
外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事に従事。
1861年、1865年には幕府使節で西洋視察。新聞に関心を寄せた。
江戸城開城後の1868年閏4月に『江湖新聞』創刊。
彰義隊が敗退後、同誌に『強弱論』を掲載、新政府の怒りを買い、発禁処分、逮捕。木戸孝允の取り成しで無罪放免。
岩倉使節団にて各国を訪れ、帰国後、東京日日新聞入社(主筆、のち社長)、東京府府会議長に。
1882年、立憲帝政党結成、自由党や立憲改進党に対抗したが、翌年解党。
1888年、経営不振から東京日日新聞社退社。評論活動を続け、演劇改良運動と劇場経営に着手。
翌年11月、歌舞伎座開設。経営から離れ、歌舞伎座座付作者になり、脚本を多数執筆。代表作は「大森彦七」「侠客春雨傘」「鏡獅子」「春日局」など。
1903年、舞台から手を引き、翌年衆議院に立候補し当選を果たすも、1906年、64歳で死去。







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