新選組関連人物事典


【み】 2件

【宮川 音五郎 (みやがわおとごろう)】

生没年不詳

近藤勇は、多摩の豪農宮川家の3男で、2歳ずつ歳の違う兄がいる。音五郎は上の兄で、宮川家を継ぐ。
宮川家には、他に3人の姉妹がいたが、揃って早死。
音五郎は、勇が近藤家に養子に行ってからも、何かと面倒を見たほか、土方・沖田ら試衛館の面々も可愛がった。

勇が京に上ってからは、残されたツネ達を守ったという。

慶応3年(1867)に沖田が音五郎宛てに書いた手紙で、「自分は病気だが、快方に向かっているので心配無い。」とあり、遠い江戸で音五郎が、沖田の身を案じていた事が察しられる。

音五郎は、後に自分の次男・勇五郎を、勇の娘・タマの婿養子にしている。

勇五郎は、勇の刑死に偶然立ち合い、音五郎に報告。驚き嘆いた音五郎だが、「何とか遺体を持ってこよう」と決意し、板橋に出向き番人に金を握らせ、首の無い勇の遺体を三鷹の龍源寺に運び埋葬したという話が「新選組異聞」などに遺っているが遺体の掘り起こしなどは相当困難であるという研究家も数多くいるくらいで、真相の程は解らない。






【深雪太夫 (みゆきだゆう)】

生没年不詳

近藤勇の愛妾。
大坂新町の遊郭「折屋」の女郎で、すらりとした美人だったらしい。
金沢出身と言われているが、確かな事は判らず。

近藤と深雪が出会ったのは、元冶元年(1864)以前と思われる。

深雪は、23〜24歳だったと思われ、近藤は深雪太夫の虜となり身請け。醒ヶ井木津屋橋下ルの休息所に彼女を囲う。

しかし近藤との生活は、1年程で終る。

病死した説と、近藤が妹・お孝に手をつけて身を引き、手切れ金を貰い消息不明となった説もある。

明治末期の頃に生存説もあり、報知新聞の記者が汽車に乗った時、たまたま乗り合わせた老婆が京訛りで、「私が深雪太夫、本人だ」と語ったとも言われる。







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