新選組関連人物事典


【や】 6件

【八木 源之丞 (やぎげんのじょう)】

生没年不詳

壬生郷士。
室町時代から庄屋を務め、源之丞は、14代目。
浪士隊に参加してきた近藤勇・芹沢鴨ら13名に宿を貸す。
新選組が会津藩お預かりになった時、会津本陣に移ると思っていたらしいが、彼らが八木家に居座ったため、八木一家は、新選組隊士らと寝起きを共にすることになる。

慶応元年(1865)に西本願寺に移転するまで、八木邸が屯所となった。柱で試し斬りをされたり、夜中に大騒ぎされたり、毎日が大変だったようだが、源之丞は、彼らの面倒をよく見ている。

初めて近藤勇と芹沢鴨が、京都守護職邸に向かう際に、八木家から麻の上下を借り、紋が総て八木家のものとなり、妙な有様になったが、芹沢は「構わん構わん」と笑ったらしい。
西本願寺へ引っ越す際、土方は源之丞に礼を述べ、「寸志です」と包みを出した。中身はたったの5両で、源之丞は、「3年もいたのに安いな」と笑い、この5両で引越し祝いの酒を、新選組に届けたという。






【八木 為三郎 (やぎためさぶろう)】

1850年〜1931年

壬生屯所になっていた八木家の当主・源之丞の次男。

子母澤寛の著作「新選組異聞」に掲載された「壬生ばなし」は、昭和3年(1928)12月15日に子母澤が為三郎に面談し、聴取したもので、その後、数十回に渡り、手紙などの取材に応じた。

子供の頃の自身の回想や両親、近所の人の伝聞や芹沢暗殺が近藤派の犯行であると、母が目撃した話や、沖田が子供好きで、壬生寺で良く遊んでいた話など、為三郎から有名になった伝承は多い。






【八木 秀二郎 (やぎひでじろう)】

生没年不詳

八木源之丞の子。
明治16(1883)年ごろ、京都府葛野郡の茶業組合の副取締にその名を連ねている。
それ以外の詳細は不明。






【八木 雅 (やぎまさ)】

生年不詳〜明治17年
(?〜1884)

八木源之丞の妻。
明治17年、没。
それ以外の詳細は不明。






【八木 勇之助 (やぎゆうのすけ)】

生没年不詳

八木源之丞の子。
文久3(1863)年9月16日夜の芹沢鴨暗殺の際、隣室に寝ており、とばっちりで足に刀傷を負ったという。






【山岡 鉄太郎 (やまおかてつたろう)】



天保7年6月10日〜明治21年7月19日
(1836年7月23日〜1888年7月19日)

本所出身、幕臣、旗本。
幕末三舟の一人・鉄舟。
小野朝右衛門高福の四男で母・磯女。妻・英子は高橋泥舟の妹。
愛称は「鬼鉄」。
はじめ千葉門下、後に「無刀流」の始祖となる。
1845(弘化2年8月24日) 郡代となった父に伴われ、飛騨高山に就く。
1846(弘化3)年、富田礼彦に習字・素読を受ける。
1850(嘉永3)年、父の代参として伊勢大廊に詣で足代弘訓と相識る
「修身二十則」をつくる。
1852年(嘉永5年7月29日)、江戸に戻り、義兄・小野幾三郎の許に身を寄せる。
講武所剣術教授方世話役
1862(文久2)年、浪士取締役。
1863(文久3)年、鎮撫隊組長として上洛。
1868年3月28日(慶應4年3月5日)はじめて勝海舟と会い感銘を受け、感嘆相照らす師弟となる。
同年、西郷隆盛と駿府で会見、徳川氏救済と江戸城開城の交渉にあたる。
明治維新後、静岡藩に出仕、静岡藩権大参事。
1871年茨城県権参事。宮内庁勤務。明治天皇の侍従。内宮少輔
1888(明治21)年7月19日、胃癌のため死去。







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