新選組関連人物事典


【お】 6件

【お梅 (おうめ)】

生年不詳〜1863年

京都四条堀川の大物問屋菱屋の妾。

菱屋は、芹沢鴨の注文を受け着物を納入するが、なかなか代金は払われなかった。そこで「男の使用人よりも相手が女であれば、角も立たず、断りにくい」と考えて、お梅を屯所へ行かせた。
ところが芹沢は、美しいお梅を強引に我が物としてしまい、お梅は芹沢の物となる。

文久3年(1863)9月16(18)日、芹沢は泥酔して八木邸に帰宅。
お梅も一緒に寝ていたが、真夜中に襲撃され、お梅も道連れに斬られる。






【沖田 キン (おきたきん)】

1836年〜1908年

沖田総司の次姉。
越後三根山藩士・中野伝之烝由秀、23俵2人扶持の妻。

慶応4年(1868)幕府瓦解後、2月25日には藩主・牧野播磨守に従い、夫と共に江戸から越後へ。

維新後は、東京へ戻り、東京下谷で73歳で没。






【沖田 ミツ (おきたみつ)】



1833年〜1907年

沖田総司の長姉。
14歳で婿養子の井上林太郎と結婚し、沖田の家名を残す。
ミツは、総司の母親代わりとして9歳まで育て、家計が苦しかったため近藤周助に頼み、総司を試衛館に預け、住み込み弟子とさせる。
夫の林太郎は、総司と共に浪士上洛に同行するも、江戸へ戻り、新徴組の組頭となる。

幕府瓦解後、同組を預かる酒井候の所領、出羽庄内引き揚げに伴い、林太郎・ミツ・子供4人も慶応4年(1868)2月26日に江戸を立った為、京都から戻った総司の末期を看取ることは出来なかった。

明治5年(1872)東京に戻り、墨田区向島梅屋敷も住み、明治18年(1885)林太郎が死去すると、仙台塩釜にいる長男・芳太郎と同居。
明治24年(1891)に芳太郎が39歳の若さで早世すると、末子と長女・イシの婚家に身を寄せる。

卓吉が成人し、満州鉄道技手となり旅順に赴任すると、

彼を追い、74歳で大連に渡る。

翌年、卓吉とハル(嫁)のもとで永眠。
戒名は、「至誠院実誉妙精大姉」






【沖田 林太郎 (おきたりんたろう)】

文政10年〜明治16年
(1827年〜1883年)

新徴組隊士。
妻は沖田ミツ。
新選組一番組長沖田総司の義兄。
諱は房政。

八王子千人同心の井上家に生まれる。
近藤周助の門人となって天然理心流剣術を学び免許を得た。

弘化3年(1846年)、沖田ミツと結婚して沖田家の家督を継ぐ。
嘉永6年(1853年)、長男・芳次郎が生まれる。

文久3年(1863年)、浪士組に近藤勇、沖田総司とともに参加。
三番組(小頭新見錦)に属して京へ上る。
浪士組の帰東に際して近藤勇ら天然理心流一門は京に残留するが、林太郎はこれに加わらず江戸へ帰る。
後に浪士組は新徴組に改編されて庄内藩御預かりとなり、江戸市中警護に当たった。
林太郎は組頭を務めている。

慶応4年(1868年)、江戸幕府が消滅すると庄内藩主・酒井忠篤は帰国することになり、林太郎もこれに同行。
明治5年(1872年)、東京へ戻る。明治16年(1883年)、死去。






【お孝 (おこう)】

生没年不詳

近藤勇の愛妾・深雪太夫の妹。
元は、大坂新町遊郭吉田屋の御幸太夫。

近藤は、お孝を用達の京屋忠兵衛に仲介を頼み、身請けし、京都の休息所に住まわせた。

原田左之助の妻・まさの話では、近藤は「お孝・お孝」と呼び、可愛がられていたという。

お孝は、慶応3年(1867)12月新選組が京を去るまで、近藤に尽くした。
この間に、お勇という一女が生まれている。






【お琴 (おこと)】

生没年不明

土方歳三の許婚。
戸塚村(東京都新宿区早稲田の三味線屋の一人娘。佐藤家の遠縁。
土方歳三の兄・為次郎が浄瑠璃や義太夫を趣味としていて、たまたま歳三が為次郎に頼まれ、三味線の糸やバチを買う為に於琴の店へ行った。
歳三は、その美声と三味線の音色に聞き惚れ、彼女を見初めたらしい。
ちなみに長唄は名取りで、美人だったらしい。

義兄・佐藤彦五郎の世話で、許婚になったと伝わる。
歳三は、「男子一生の大事を成し遂げぬうちは」と結婚による拘束を拒んだ為、歳三が死に至るまで婚約者のままだった。

江戸での隊士募集の際、琴の家に立ち寄ったといわれる。

彼女の消息は、不明。







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