新選組関連人物事典


【き】 4件

【吉栄 (きちえい)】

生没年不詳

京都島原・桔梗屋の遊女。
文久3年(1863)9月16(もしくは18)日、平山五郎が島原の角屋で遊んだ後、小栄を連れて八木邸に帰った。
皆が寝静まった真夜中、小栄が厠へ行こうと唐紙を開けると目の前に抜刀した男2人を目撃。
彼らに「危ない。このまま帰れ。」といわれ、そのまま逃げ出し、命拾いした。
吉栄とも小栄とも云われているが、詳細は不明。






【君菊 (きみぎく)】

生年不詳〜1885年

京都北野上七軒の舞妓。
土方歳三の愛人といわれている。
名前を君鶴とする書も。

土方との間に一女を設けたが早世したという話もあるが、真偽については不明。






【清河 八郎 (きよかわはちろう)】



(1830〜1863)

出羽庄内清川村郷士・斎藤豪寿の長男として生誕。母は亀代。

儒学を学び、北辰一刀流を納め、諸国遊歴。

安政3年、江戸神田に文武指南書開設。
翌年、山岡鉄太郎ら15人と「虎尾ノ会」結成。倒幕行動を画策、察知され捕吏を殺害し、追われる身に。
妻・お蓮は獄中で死亡。

潜伏し、松平春嶽に「急務三策」を建言。
これが受け入れられ過去の罪状を許され浪士組の結成を建言。
これが採用され、上洛を控えた将軍・家茂警護のため浪士が募集された。

文久3年2月、集まった浪士組234名と役員30名を率い上洛。
京にへ到着すると、清河は壬生新徳寺へ集め「我らの目的は将軍警護ではなく、攘夷の魁となるためである。」と策某を宣言#血判を求めた。
清河は朝廷に働き掛け浪士組の攘夷運動に許しを得た。
反対した近藤勇らが清河暗殺を目論んだが未遂に終わる。
清河の動向に危惧した幕府により浪士組は江戸に呼び戻される。

その後も浪士組による攘夷を画策する。しかしその行動は、幕府から睨まれ、文久3年4月13日、知人宅で酒を飲んだ帰り道、麻布一ノ橋で佐々木只三郎らに斬られた。
享年34歳。






【金太夫 (きんだゆう)】

生没年不詳

京都島原・木津屋の遊女で、近藤勇の馴染みの遊女。
「金」の字を「こがね」と読んだとも云われる。
当時、京都で5本の指に入る程の美女で、年齢は23歳ぐらい、水もしたたるような風情だったらしい。







[戻る]



©フォレストページ