新選組関連人物事典


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【沖田 ミツ (おきたみつ)】



1833年〜1907年

沖田総司の長姉。
14歳で婿養子の井上林太郎と結婚し、沖田の家名を残す。
ミツは、総司の母親代わりとして9歳まで育て、家計が苦しかったため近藤周助に頼み、総司を試衛館に預け、住み込み弟子とさせる。
夫の林太郎は、総司と共に浪士上洛に同行するも、江戸へ戻り、新徴組の組頭となる。

幕府瓦解後、同組を預かる酒井候の所領、出羽庄内引き揚げに伴い、林太郎・ミツ・子供4人も慶応4年(1868)2月26日に江戸を立った為、京都から戻った総司の末期を看取ることは出来なかった。

明治5年(1872)東京に戻り、墨田区向島梅屋敷も住み、明治18年(1885)林太郎が死去すると、仙台塩釜にいる長男・芳太郎と同居。
明治24年(1891)に芳太郎が39歳の若さで早世すると、末子と長女・イシの婚家に身を寄せる。

卓吉が成人し、満州鉄道技手となり旅順に赴任すると、

彼を追い、74歳で大連に渡る。

翌年、卓吉とハル(嫁)のもとで永眠。
戒名は、「至誠院実誉妙精大姉」





【沖田 林太郎 (おきたりんたろう)】

文政10年〜明治16年
(1827年〜1883年)

新徴組隊士。
妻は沖田ミツ。
新選組一番組長沖田総司の義兄。
諱は房政。

八王子千人同心の井上家に生まれる。
近藤周助の門人となって天然理心流剣術を学び免許を得た。

弘化3年(1846年)、沖田ミツと結婚して沖田家の家督を継ぐ。
嘉永6年(1853年)、長男・芳次郎が生まれる。

文久3年(1863年)、浪士組に近藤勇、沖田総司とともに参加。
三番組(小頭新見錦)に属して京へ上る。
浪士組の帰東に際して近藤勇ら天然理心流一門は京に残留するが、林太郎はこれに加わらず江戸へ帰る。
後に浪士組は新徴組に改編されて庄内藩御預かりとなり、江戸市中警護に当たった。
林太郎は組頭を務めている。

慶応4年(1868年)、江戸幕府が消滅すると庄内藩主・酒井忠篤は帰国することになり、林太郎もこれに同行。
明治5年(1872年)、東京へ戻る。明治16年(1883年)、死去。





【お孝 (おこう)】

生没年不詳

近藤勇の愛妾・深雪太夫の妹。
元は、大坂新町遊郭吉田屋の御幸太夫。

近藤は、お孝を用達の京屋忠兵衛に仲介を頼み、身請けし、京都の休息所に住まわせた。

原田左之助の妻・まさの話では、近藤は「お孝・お孝」と呼び、可愛がられていたという。

お孝は、慶応3年(1867)12月新選組が京を去るまで、近藤に尽くした。
この間に、お勇という一女が生まれている。





【お琴 (おこと)】

生没年不明

土方歳三の許婚。
戸塚村(東京都新宿区早稲田の三味線屋の一人娘。佐藤家の遠縁。
土方歳三の兄・為次郎が浄瑠璃や義太夫を趣味としていて、たまたま歳三が為次郎に頼まれ、三味線の糸やバチを買う為に於琴の店へ行った。
歳三は、その美声と三味線の音色に聞き惚れ、彼女を見初めたらしい。
ちなみに長唄は名取りで、美人だったらしい。

義兄・佐藤彦五郎の世話で、許婚になったと伝わる。
歳三は、「男子一生の大事を成し遂げぬうちは」と結婚による拘束を拒んだ為、歳三が死に至るまで婚約者のままだった。

江戸での隊士募集の際、琴の家に立ち寄ったといわれる。

彼女の消息は、不明。





【吉栄 (きちえい)】

生没年不詳

京都島原・桔梗屋の遊女。
文久3年(1863)9月16(もしくは18)日、平山五郎が島原の角屋で遊んだ後、小栄を連れて八木邸に帰った。
皆が寝静まった真夜中、小栄が厠へ行こうと唐紙を開けると目の前に抜刀した男2人を目撃。
彼らに「危ない。このまま帰れ。」といわれ、そのまま逃げ出し、命拾いした。
吉栄とも小栄とも云われているが、詳細は不明。





【君菊 (きみぎく)】

生年不詳〜1885年

京都北野上七軒の舞妓。
土方歳三の愛人といわれている。
名前を君鶴とする書も。

土方との間に一女を設けたが早世したという話もあるが、真偽については不明。





【清河 八郎 (きよかわはちろう)】



(1830〜1863)

出羽庄内清川村郷士・斎藤豪寿の長男として生誕。母は亀代。

儒学を学び、北辰一刀流を納め、諸国遊歴。

安政3年、江戸神田に文武指南書開設。
翌年、山岡鉄太郎ら15人と「虎尾ノ会」結成。倒幕行動を画策、察知され捕吏を殺害し、追われる身に。
妻・お蓮は獄中で死亡。

潜伏し、松平春嶽に「急務三策」を建言。
これが受け入れられ過去の罪状を許され浪士組の結成を建言。
これが採用され、上洛を控えた将軍・家茂警護のため浪士が募集された。

文久3年2月、集まった浪士組234名と役員30名を率い上洛。
京にへ到着すると、清河は壬生新徳寺へ集め「我らの目的は将軍警護ではなく、攘夷の魁となるためである。」と策某を宣言#血判を求めた。
清河は朝廷に働き掛け浪士組の攘夷運動に許しを得た。
反対した近藤勇らが清河暗殺を目論んだが未遂に終わる。
清河の動向に危惧した幕府により浪士組は江戸に呼び戻される。

その後も浪士組による攘夷を画策する。しかしその行動は、幕府から睨まれ、文久3年4月13日、知人宅で酒を飲んだ帰り道、麻布一ノ橋で佐々木只三郎らに斬られた。
享年34歳。





【金太夫 (きんだゆう)】

生没年不詳

京都島原・木津屋の遊女で、近藤勇の馴染みの遊女。
「金」の字を「こがね」と読んだとも云われる。
当時、京都で5本の指に入る程の美女で、年齢は23歳ぐらい、水もしたたるような風情だったらしい。





【小島 鹿之助 (こじましかのすけ)】



1829年〜1900年

近藤勇の長年の盟友で、勇より4歳年上の兄貴分。
土方の義兄である佐藤彦五郎を加えた3人の結びつきは強く、義兄弟の契りも結んでいる。

武州多摩郡小野路村(現・東京都町田市小野路町)三十四組合村の寄場名主。

鹿之助は、文武両道を目指した人物で、遠山雲如や大沼枕山という文人に付いて漢詩を学んだ一方、剣は父の角左衛門と共に近藤周助の天然理心流を学ぶ。

勇は、周助と連れ立ち、足繁く小野路を訪れ村人に剣術指南をした事から、勇と鹿之助の結びつきは深くなり、鹿之助は、勇に漢詩を教えるなどしていくうちに交流が深まっていった。
小野路には、土方・沖田・山南も試衛館の剣術師範として訪れ、鹿之助は彼らの世話もよく焼いたという。

新選組が結成されてからは、彦五郎と同様に物心内面の支援者となる。
また勇らが江戸に戻り、甲陽鎮撫隊となった時は、「小野路農兵隊」を組織、隊長として援軍に向かう予定だったが、残念ながら間に合わなかった。
明治になってからは、彦五郎と共に賊軍といわれた新選組の名誉を挽回すべく努力し、「詔歳遺稿上下」など書物を残す。





【駒野 (こまの)】

生没年不詳

京都三本木の芸妓で近藤勇の愛人。
近藤に落籍され、男児を産む。

慶応4年(1868)4月、板橋で刑死した近藤の首級が三条河原に晒されると、駒野は自ずから辻講釈師に金を与えて、京都での近藤の手柄や追悼の一席を口演させた。
しかしその場で新政府軍に捕まり、髪を切られて追放されたらしい。

また明治13年(1880)に深雪太夫が駒野を訪ね、駒野が産んだ男の子の消息を尋ねたところ、「5つまで里子に出して、7つまで手元で育てたが、人の勧めで東福寺に預けて仏弟子にし、今では末頼もしい智識になった」と答え、その子は立派な僧となって亡父の近藤勇の菩提を弔ったという話がある。
しかし、この話は深雪太夫が早くに死亡した説もあり、真偽は不明。





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