新選組関連人物事典


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【小楽 (こらく)】

生没年不詳

京都上七軒の舞妓。
土方歳三の馴染みの妓女の一人と思われる。

文久3年(1863)11月下旬、土方歳三が小野路の小島鹿之助にあてた手紙に名前を連ねている。
詳細は不明。





【近藤 周助 (こんどうしゅうすけ)】

1792年〜1867年

近藤勇の養父。
天然理心流三代目。
晩年に周斎と改名。

農家の3男坊の勇の器量に惚れこみ、養子にした。

武蔵国多摩郡小山村(現・東京都町田市小山町)に生まれ、20歳の時に近藤三助の道場に入門。
剣の腕を上げ、天保元年(1830)近藤宗家三代目を継ぐ。
門弟は、八王子千人同心と呼ばれる半農半士が中心で、周助は、精力的に八王子から日野、府中へも出稽古に向かい勢力を拡大。
周助が壮年期に達した時には、門人が300人にも達していたという。
天保10年(1839)周助は、江戸牛込柳町市ヶ谷甲良屋敷(現・新宿区甲良町)に、新しい道場を新設。これが、試衛館道場となる。

勇らが京に上った直後、周斎は、脳卒中で倒れ、四谷の隠居所で療養生活に入った。
亡くなったのは、勇が処刑される前年の慶応3年(1867)10月28日。





【近藤 瓊子 (こんどうたまこ)】

1862年〜1886年

近藤勇とツネの子。
タマとも。
 勇が浪士隊に参加し、京都へ上洛した後は、母・ツネと暮らし、瓊子7歳の祝いに勇は、京都西陣織の帯を送る。
古代紫の地に小さく鶴が飛ぶ柄の金糸金箔入の高級品で、後に裁断され刀袋に直されている。

 父・勇の死後、瓊子は宮川音五郎の家に母と身を寄せ、15歳の時、音五郎の息子・勇五郎26歳と結婚し、近藤姓を残した。
 明治16年(1883)8月7日に長男・久太郎を産むも、翌年6月、瓊子は25歳の若さで早世。
母のツネは、悲嘆のうちに6年後死去。

 瓊子の遺児の久太郎は成長して、日清戦争に出征し、高力屯で戦病死した為、近藤家の直系はここで、断絶する。





【近藤 ツネ (こんどうつね)】



1837年〜1892年

近藤勇の妻。
江戸の清水家(御三家の一つ)家臣・松井八十五郎の長女。
ツネは、一橋家の祐筆を務め、万延元年(1860)3月に勇と結婚。

文久2年(1862)に瓊子(タマ)を産むが、結婚生活は実質3年程。
文久3年(1863)に勇が京都へ上洛した後は、養父・周斎と娘の世話をしつつ、江戸で留守を守って暮らした。

夫が快挙上げ、浮いた話が耳に入るが、耐えぬいたという。

養父周斎は、慶応3年に病死。

勇の刑死後は、宮川音五郎(勇の長兄)宅にタマと、身を寄せ、音五郎の息子・勇五郎を婿に迎え、久太郎という初孫を得たのもつかの間、娘・タマが病死。
ツネ自身は、再婚をせず、自殺未遂をするなど、孤独と忍耐の多い生涯を終える。





【近藤 フデ (こんどうふで)】

生没年不詳

近藤周助の妻で勇の義母。
周助の9人目の妻と言われているが、謎だらけの女性。
残されているエピソードを見ると、評判は芳しくない意地悪な人だったような印象のものが多い。

沖田総司が9歳で試衛館に住み込みで入門するが、沖田のことを周助の隠し子だと思い、憎悪していたという。
朝から晩まで、家事や道場の掃除を言いつけられ、稽古も出来ず、くたくたになった総司は、涙をこぼしたと伝わる。
勇もこの怖い義母には、頭が上がらなかったといわれる。





【佐々木 只三郎 (ささきたださぶろう)】

天保4年〜慶応4年1月12日
(1833年〜1868年2月5日)

会津藩士・佐々木源八の三男。泰昌。唯三郎とも。
会津藩領内に生まれる。親戚であった旗本・佐々木矢太夫の養子となる。
神道精武流を学び、幕府講武所の剣術師範を勤めたと伝えられる。

1862年には浪士組結成に伴い京都へ上る。
1864年には京都見廻組を率いて新選組と共に尊攘派志士から恐れられた。
文久3(1863年)には江戸へ戻り麻布で窪田泉太郎などと共に浪士組の清河八郎を暗殺する。

戊辰戦争が勃発すると幕府軍の一員として鳥羽伏見の戦いに参戦するも重傷を負い、和歌山で死去。享年35。

元見廻組の証言から慶応3年(1867年)の京都近江屋での土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺に関与しているとも言われる。

墓所は和歌山県和歌山市の紀三井寺、福島県会津若松市「武家屋敷」内





【佐藤 源之助 (さとうげんのすけ)】

1850年〜1929年

佐藤彦五郎とノブの長男で、土方歳三の甥にあたる。
10歳で近藤勇の天然理心流に入門し、叔父の土方にも可愛がられていた。

慶応4年(1868)の甲陽鎮撫隊に彦五郎が参加した事から、足を患って留守宅にいた源之助は官軍に厳しい尋問を受けた。
しかし、父の行方を全く知らなかった源之助は、白状のしようもなく答えなかった。
敵将だった土佐の板垣退助から「まれに見る親孝行」と誉められ釈放されたらしい。

明治後、武蔵野叢誌に「勅命丸」という一文を書き、不敬罪に問われ3年間投獄される。

その後、南多摩郡学区取締・日野郵便局長を務め、退職後「今昔備忘記」を書き残し、明治22年(1889)には西国へ旅行。
京都で元新選組隊士の山野八十八や島田魁と会い、近藤勇の首級や土方歳三の愛妾の行方を探してる。
享年80歳。





【佐藤 ノブ (さとうのぶ)】

生没年不詳

土方歳三の姉。
歳三は、末っ子で3人の兄と2人の姉がいたが、4歳年上の次女が、ノブである。
歳三は、父母と早く死に別れている為、ノブが母親代わりになり歳三を育てた。
日野宿の名主で従兄弟にあたる佐藤彦五郎の元へ嫁ぐが、歳三も佐藤家に居候するようになったことを見ると、余程のぶを慕っていたと思われる。

明治2年(1869)5月、歳三は箱館で戦死する前に、市村鉄之助を佐藤家へ自分の死を報告させるために脱出させ、遺髪と軍服写真、辞世の句を持たせた。
ノブは、この辞世の句を針箱にしまい、身近に置いていたという。





【佐藤 彦五郎 (さとうひこごろう)】





土方歳三の義兄。
近藤勇とも親交を結び、物心両面で2人を陰ながら支援した。
佐藤家は武州多摩日野宿の名主で、彦五郎は父が早くに他界したため11歳で家を継ぐ。
人望も厚く、若い頃から村の政治に関わる。
彦五郎の母・まさは、歳三の叔母にあたり、従兄弟同士だった為、彦五郎は、何かと歳三の面倒を見ていた。
弘化2年(1845)歳三の姉・のぶと結婚。
歳三は、居候として佐藤家で暮らすようになる。
24歳の時に近藤周助と巡り会い、天然理心流門下生となる。
自衛の必要性を感じていた彦五郎は、邸内に道場を構える程、同地の武芸普及に熱心になり、歳三も本格的に剣の道に励むようになる。
近藤・沖田らとも義兄弟の同然の関係だった。

新選組が結成されてからは、彼らの良き支援者となり隊の運営に力を貸す。また彼らからの書簡も、多く受け取った。
慶応4年(1868)新選組が江戸へ戻り、甲陽鎮撫隊を結成し甲州へ進軍した際、彦五郎は自ら「春日隊」を結成し、参加。
勝沼で敗れ、官軍から厳しく追及された後、南多摩郡初代郡長の他、多くの公職を務めた。

明治21年(1888)に関係者と共に、亡き近藤勇・土方歳三の為、「殉節両雄之碑」を日野市高幡不動金剛寺境内に建立。
新選組の汚名を雪ぐ努力をした。





【十一代和泉守兼定 (じゅういちだいいずみのかみかねさだ)】



生没年不詳






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