SS集
□SS-日常話
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歩けば梅の香りが鼻を掠める。ソメイヨシノの枝の先は膨らんで、冬用コートが少し恥ずかしくなる3月も半ば。
この毛布もそろそろ暑くなってきたとぼんやりと考えながら目を開ける。
微かな衣擦れと人の気配。無いときは平気だったのに、一度知ってしまうとどうして今まで無くても平気だったのかと不思議になる他人の温もり。
いや、正確に言うと他魔人?
いつもならさっさと抜け出て自分の趣味に興じているはずの男が近くにいる。思わず顔を上げて、
そして固まる。
服……着ろや。
いやいや、自分だって着てないのだけれど、それは今起きたばかりだし、っていうか何で、着てないの?
恐る恐る頭を上げて確認しようとするけど、正視できるわけもなく。もう一度枕に突っ伏してしばらく思考停止。
どうやら彼は本を読んでいるらしい。
服はひとまず上は確実に着ていないらしい。
わかっていることを確認するも、脳内に浮かび上がるのは肌理細やかな肌と筋肉質の細い腕。ぶるぶると頭を振って追い払おうとしたらがっしりと手のひらで掴まれた。
「おはようございます先生!」
「……おはよう」
何で助手モードなんだ、こんなときに限って。布団に押し付けられながらもごもごと返事をして顔を上げる。緑の瞳を確認して、そして、
やっぱり着てない。
何なの?!このアメリカンな寝具の通販CMみたいな格好は!優雅なモーニングなの?
わけのわからないことをぐるぐる考えて、そして溜め息。いつも必要以上にガードが固いくせに、何で今日に限って裸なの裸族なの。
そして自分の身の上も思い出してそっと毛布を引き上げる。相変わらず人間の速度で本を読む魔人をもう一度ちら見して、のそのそと身を起こす。
「……珍しいね」
ここにいるのも、そんな格好も、そんな速度も。
置いてある本が一冊なのも、そして、珍しく人間仕様に穏やかなのも。
一呼吸置いて、魔人がパタンと本を閉じる。ぽんと放り投げてこちらを見た後、ゆっくりとシーツに肘をついてを体を倒した。起き上がろうとしていた自分と丁度目が合う程度に。
「そうか?」
「そうだよ」
くすくす笑いながら、そのまま白に身を投げて、魔人の金糸が剥きだしの肩を滑る。
「そうか」
含み笑いを浮かべながら、目が閉じられた。長い睫が影を作る。その陰影までくっきりと見えて、なぜか心臓が跳ねた。
晒された背中の整えられたライン。無駄な脂肪はおろか、きっと筋肉までも厳選しているのだろう。細い身体に見えるバランスの取れた隆起が綺麗だと思う。
「今日は随分と、」
そこまで言って、口を閉じた。何も壊すことはないのだ。この不思議な時間を。日向の猫のように気持ち良さそうに目を閉じて弛緩させている男を眺めながら、言葉にしなくても自分は何と続けようとしたのか考える。
緩い。
緩い、ね。
いつも首元までスカーフで隠して、どんな攻撃だって瞬時に反応できる隙の無さを纏って。
それなのに、今は。
こんなにも。
起こしかけた身体の力を抜く。ぽふりと倒れこんで同じ景色を見る。片目が開いてまた閉じた。少しおかしくなって笑ってしまう。
こんなにも緩くて
こんなにも無防備で
少し、罪悪感さえ覚えるほど。
そこまで考えて、気づいてしまう。
「ぁ、」
自分の隣でここまで晒してくれるその意味を。
これは、
「どうしました?」
やばい。
「な、なんでもない」
「顔が赤いですよ?先生」
「何でもないったら!」
突然引き寄せられて目の前に陰ができる。
両肩の上に手をついて見下ろす魔人は、もちろんさっきから変わらず、
服、……着てよ。
「……反則」
「何のことです?説明してください、ほら先生!」
往復ビンタをくらいながらも、こればっかりは説明しかねる。
「もう、何でもな……ぶっ!いたいいたい!腫れるわ!」
「早く説明してくださいよ!まさか僕の身体に欲情したとか……?」
「しないよ!恥ずかしくて正視できないだけだよ!」
思わず返せばぴたりと虐待が止まる。急に張り詰めた空気に恐々その顔を見つめれば、にんまりと唇を吊り上げたドS笑み。
「……えと、」
「……」
その顔が近づいて唇が耳に触れる。ぞくんと駆け抜ける寒気と甘さ。
「今更、だな」
ぼそりと呟かれて身体に火がつく。
「〜〜〜〜!!わかってるよ!ちょ、離してよ!もう!」
「フハハハハ」
毛布をひっぺがされて、もう後は言わずもがな。
特別な時間は特別な関係から生まれるもの。
ゆるゆると季節は巡り、蕾はゆっくりと開いていく。
終わり