第4取調室

□あの日
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あの日

ほんの一日で
世界が変わった



「8年……」
9月11日。
あれから、もう8年なのか。
それとも、まだ、8年なのか。
梶原はいつも、この日が来ると複雑な思いを抱く。
あの日は自宅でテレビを見ていた。
たまたま見たNHKの速報と中継が一番早かったかもしれない。
最初は、あの高層ビルの上階で火災が発生しているのだと思っていた。
そのうちに、飛行機が突っ込んだのだという情報が入り。
画面を凝視しているうちに、2機目の飛行機が隣のビルに激突した。
激しい火災が起きている階よりも更に上の階の窓から。
無数の手が、助けを求めて伸ばされていた。
やがて灼熱に耐えられず、そこから身を投げる人間の姿が映し出され。
後に公開された、救出に入った消防士に同行したカメラマンが撮っていた映像には、次々に人が地面に落ちてくる生々しい音が残されていた。
そして。
飴のように溶けた鉄骨。
人の命も。
アメリカが築き上げたプライドも。
ほんの一瞬で轟音と共に崩れ落ちた。
あれから。
世界は何処へ向かっているのだろう。



「ただいまあ……」
秋葉の部屋に戻ると、静寂が梶原を迎えた。
眠っているのだろうか、と思ったが、寝室には秋葉の姿はない。
ただ、クッションが放り投げられ、ここ数日寒かったので引っ張り出した薄手の毛布もぐしゃぐしゃになって床に落ちている。
「…………」
隣の部屋では雑誌が散乱していて。
キッチンではテーブルの上に、トマトジュースのペットボトルが横倒しになっていた。
それをひとつひとつ元の位置に直していきながら、梶原は彼を捜す。
彼は時々、この部屋の中で迷子になる。
「黒ちゃん」
さて。
今日は何処にいるのだろう、と思いながら梶原はまずベッドの下の隙間を覗く。
秋葉が眠ってから数時間。
その間に片付けておきたい用事があったので、そっと外出したのだが。
部屋の惨状から彼の暴れようが目に浮かんで、梶原は苦笑した。
「うーん……」
梶原は、布団などを入れている収納を開いてみた。
「おかしいなあ……何処に行ったのかなあ」
わざと声を出しながら、冬用の掛け布団を捲ってみる。
「見つけた、黒ちゃん」
布団の間に入り込み、ゴマフアザラシのぬいぐるみを抱いて彼は眠っていた。
いくら涼しくなったとはいえ。
こんな密閉された空間にいて息苦しくなかったのだろうか。
「黒ちゃん。ただいま」
梶原はそっと彼の髪を撫でて声をかける。
長い睫毛と頬は、まだ涙に濡れていて。
ふと梶原は心の何処かが痛んだ感触を覚えた。
梶原の声が聞こえたのか、彼はゆっくりと目を開け、真っ黒な瞳にその姿を映すとにこりと笑った。
「……かじわら……」
「どうしてこんな所にいるの?」
意外にこの狭い場所が気に入ったのか、彼はまだきょとんと首を傾げて動かない。
彼は自分の頬に流れた涙の跡に気付いたのか、ごしごしと手の甲で目を擦る。
「柊二がね、今日は世界が変わっちゃった日だからって言うから…なにがあったのか教えてもらって…それからずっと考えてたの」
「…………そう」
この時間では、もしもテレビをつけても特にあの同時多発テロについての情報は流れていなかっただろう。
それどころか、今朝のニュースでも扱いは小さかった。
厳密に言えば、まだ現地は日付が変わって夜中だろうし、夕刻のニュースの方で何か情報が流れるのかも知れない。
こうして、人は。
少しずつ当事者を置き去りにしていく。
約3千人の死者。
約、という言葉でひとくくりにしてしまうには、あまりに重い。
そんな事を思っているうちに、彼は梶原の肩に片手を乗せてそこから出てくる。
「柊二はね…何が正しくて何が間違いなのか、よく分からないって……」
ふわり、と窓から入ってきた風が、黒い髪を揺らす。
「ただ、もしも自分があの場所にいて、最期に少しだけ、誰かに何かを伝える時間が与えられたとしたら」
彼の口から、もうひとりの彼の思いが語られていく。
梶原に背を向け、彼はぬいぐるみを抱き締めていた。
きっとその双眸からは透明な涙が溢れている。
そう思い、梶原はそっと彼を後ろから抱き締めた。
「……きっと、俺も柊二と同じ事をするだろうなって思った」
秋葉が何を言ったのか。
彼はそれを明かす事はなかった。
ただ、自分も恐らく秋葉と同じ事を思うだろう。
そう呟き、梶原の腕に頬をぴたりとつける。
「でもしばらくしたら恐いなって思って……もしこのままかじわらが帰ってこなかったらどうしようって……」
静寂は、静穏。
静穏は、零。
零は、死。
冷たいもの。
不安で不安で、手当たり次第に部屋を散らかして。
温かい場所を探した結果、こんな所にもぐりこむ結果になったのだろう。
「当たり前の事が、本当は当たり前じゃないんだって……何となく、今日わかった」
少し大人びた口調で、彼は呟いた。
「かじわら、だいすき…ありがとう……」
ちゃんと見つけてくれて。
帰って来てくれて。
ここで、生きてくれて。
そして生かしてくれて。
彼は、そう言ってもう一度梶原の腕に頬を擦り寄せた。



あの日、世界は大きく変わり。
今も軋んだ音を立てながら歯車は回り続けている。


それでも。
この場所で。
今日も生きている奇跡。
あなたを抱き締める事が出来る、幸福。

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