第4取調室

□間接キス
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かしゃん、と。
久方ぶりにあの音を聞いた気がした。
秋葉のオイルライターの音だ。
ほどなくして、微かに煙草のにおいが漂ってくる。
梶原は目を開けると、まだ疲れが残る重い身体で起き上がった。
嗅ぎ慣れていて、しかしもう忘れかけていた秋葉が吸う煙草のにおい。
煙草が嫌いだった自分が、この銘柄だけはにおいで分かるようになった。
他の誰のものでもない、かつて秋葉のにおいだったもの。
「………」
ひんやりとした、秋の朝だった。
素足にフローリングの冷たさが直に伝わる。
どうして、今頃。
ずっとやめていた煙草を吸っているのだろう。
そもそもこの部屋にはもう煙草なんて無かったのに。
少し嫌な予感を覚えながら、梶原は秋葉を捜してキッチンの方へ行く。
テーブルの上に空き缶を置き。
片手で頬杖をつき、彼はぼんやりと煙草をくわえていた。
「何やってるの。黒ちゃん」
「うるさい」
彼は、秋葉ではなく。
黒だ。
どうして煙草のにおいがしたと思ってしまったのだろう。
梶原は苦笑する。
黒がくわえているのは、本物の煙草ではなく、シガレットチョコだ。
秋葉なら、絶対に口にする事はないだろう、そのチョコレート菓子。
そして、果汁20%のジュース。
「黒ちゃん…」
ふい、と顔を背け、黒はくわえたチョコを揺らす。
機嫌が悪そうだ。
以前、秋葉は煙草を吸っていた。
それは、嗜好以前の問題で。
尖る神経を宥め、それを誤魔化すためのものだった。
どんなきっかけがあったのかは未だに分からないが、ある日、唐突に秋葉は煙草を吸うことをやめた。
ライターだけは彼の妹の形見なので、大切にしているのだが。
もう、身体が受け付けなかったのだろうと思う。
そんなもので誤魔化せるレベルの問題ではなかったし、退廃的な手段よりは、もう少し前向きな方法で己を保つ事へと目を向け始めたのだろう。
それ以来、秋葉が、少なくとも梶原の前で煙草を吸った事はない。
だが。
黒は違う。
彼と初めて出会ったころ。
黒はよく煙草を吸っていた。
あの頃は、まだ黒自身がひどく攻撃的な本来の人格を表に出していた頃だったから。
その度に梶原がそれを取り上げ、懇々とやめるように言い聞かせた。
今思えば、少し反抗期で。
第2の人格としての自分を周囲に主張していたのかも知れない。
自分は主人格とは違うのだ、と。
やがて、黒が穏やかに落ち着き始めると共に、いつの間にか煙草を吸う事をしなくなった。
「それ、さあ…。あんまりくわえてると溶けちゃうんだよ?」
「え〜……」
頭を一撫でしてやると、黒はチョコを手に取って梶原を見る。
こうして2人でいると、黒はひどく幼い。
これが、例えば仕事に行くと、普段の秋葉よりも無機質で冷徹になりきるから恐い。
恐らく黒の本質はそれに近いものなのだろう。
主人格を守る事以外に存在価値は置いていない。
だが、今目の前にいる黒は。
外側は秋葉の姿だが、内側はまるで少年だ。
そのどちらも、黒である事には違いない。
その姿を見る事を許されている、何も警戒せずに素直な姿を見せてくれる。
梶原にとって、それはこの上ない幸せでもある。
「だって。煙草は駄目なんでしょ?柊二が……発作起こしちゃうかも知れないし」
「そうだよ。でも吸いたくなったの?」
同じ身体を共有していても、不思議な事に黒は煙草が平気らしい。
それを言えば甘い物も脂っこい食事も、黒は平気だ。
そうして結局、後で入れ替わった時に秋葉が苦労する事になる。
「吸いたい吸いたい、煙草吸いたいぃぃぃぃっ!!!何で影平のオッサンは吸えて俺は駄目なの?」
初めて会った頃を第一次反抗期とすると。
今は第二次反抗期か。
ちょうど非行に走りたい年頃なのかも知れない。
「ああ、ほら。溶けてる」
梶原は話の矛先を変えるために、黒の手を取った。
「……あ?」
いつの間にか、細い指先にべっとりとチョコが溶け出していた。
黒はそれを見て顔をしかめる。
「煙草は、白ちゃんと相談してからね?」
黒は秋葉を『柊二』と呼ぶが、梶原は黒といる時にはなるべく秋葉を『白』と呼ぶ事にしている。
それは、『自分を黒とすれば秋葉は白』だという、黒自身の言葉に起因している。
「あ〜……」
黒が小さく声を上げた。
梶原がチョコで汚れた彼の指先を、ぺろりと舐める。
「ね。チョコは長く持って遊ぶもんじゃないの」
そう言って笑い、梶原は洗面所に行ってしまう。
その後姿を目で追い、黒は首を傾げた。
たったいま、梶原の唇が触れた指先を、自分の唇に触れさせる。
甘いチョコの味がした。
「……これって…間接キス?っていうのかな?」
誰に言うでもなく、黒は呟く。
「え?何か言った?」
洗顔をしながら梶原が声を上げる。
黒は急いで残りのチョコを口に放り込み、とことこと梶原がいる方へと歩いていった。
一応梶原が洗顔を済ませるまでじっと待ち。
一応梶原の服を汚さないように気をつけながら、後ろから抱きつく。
「なあに、黒ちゃん」
「間接キスっ!!」
ふてくされていたのは何処へやら。
黒は梶原の背中に頬をつけて甘える。
「何の話!?……ああ、もうこんなに汚れてるし」
梶原は、自分の前に現れた黒の手を取り、液体石鹸をつけて洗う。
大人しく梶原に手を洗ってもらいながら、黒は後でもうひとりの自分に聞いてみようと思っていた。
あれは間接キスと認められるかどうかを。

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